流れ作業と島方式 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

フォード・テーラー方式の流れ作業による自動車の組み立てが、ラインに入って作業を行うオペレーターにとり、非人間的だ、労働の疎外の典型だ、と批判されるのは、このシステムの基本に分業があるからです。

 

 

 

特に組立ラインは100以上の工程に細分化され、それぞれの工程ごとに担当のオペレーターがパーツを組みつけてゆきます。作業が非人間的なのは、「モダンタイムス」に戯画化されたように、一日数百回の同じ作業を「繰り返す」ところにあります。

そしてその作業は概ね「単純作業」です。これはテーラー方式の特徴で、単純作業であればオペレーターは熟練工である必要はなく、だれでも1週間程度の訓練をすれば作業できるようになるからです。

もう一つの特徴。これは作業という人間的側面ではなく、現代消費社会に共通の特性ですが、「標準化」「規格化」ということです。

ある工業製品が同じ仕様ならば、それを構成する部品はすべて同じ規格で造られています。ボデーに組み付けるある部品が百入った箱のどの部品を取っても組みつけられる。すべて寸分変わらぬ寸法で造られています。言い方を変えれば、これらの部品はすべて「交換可能」です。

部品がそうならば、それを組み付けるオペレーターも、実は「交換可能」と考えられています。AさんでなくてもBさんでもCさんでも、だれがやってもほぼ同じやり方で、同じ結果がでる。

 

オペレーターは「ものづくり」に人間が味わえる筈の「創造の喜び」を感じることができない。Aさんが組み付けたボデーは1分後にはAさんの前から姿を消し次の工程へ行ってしまう。

 

「ものづくり」に人が味わう喜びは「モノ」に作る人の主観が込められたと感じ、創作者が製品に自己が反映された、ないし製品の中に自己のある部分が籠められたと感じて満足を得るでしょう。芸術としての彫刻作品がその代表ではないかと思います。

しかし、流れ作業ではその満足感を得られない。

一時期、スエーデンのヴォルヴォ社が、流れ作業による疎外からオペレーターを解放しようとして、「島方式」を採用したことがありました。10人とか20人とか人数は分りませんが、オペレーターはグループを作って、グループごとに骨組みから完成までパーツを組み付けて完成するまでクルマは動かず一か所ですべての作業を行う、という方式でした。

現在でも大きなモノ、たとえば旅客機、エアバスの工場ではこの手法がとられてますね。製品が大きすぎでラインを組んで流せない。

 

 

あるいは、エアバスに限って言えば、翼、コックピット、機体、エンジンなど飛行機を大きく分け、国別に違う工場で造り、パーツを運搬して一か所で完成旅客機を組み立ててるわけですから、流れ作業ラインの大規模化とも言えますが。

ボルボの「島方式」は疎外からの解放の試みとして社会的評価を得ましたが、採算が合わず、結果的にラインの流れ作業に戻りました。

 

 

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