トウール・ド・フランス6日目はVesoul→ Troyes ヴェズル→トロワの平坦なコース。
シャンパーニュ地方の広大なブドウ畑の中をチーム毎にきれいに1列となり整然と進んで行く。
この日もスタートから3人が飛び出した。
しかし、ゴールが近くなるにつれ、Peloton(先頭集団)が徐々にスピードを上げ、型通り追い抜かれてしまった。
ゴール直前のダッシュは凄かった。 2日目に優勝したドイツのマルセル・キッテル選手が、ずっと後ろにいたにもかかわらず、20人近い選手をごぼう抜きにしてトップでゴール・ラインを切った。
フランスの4日目に優勝した新人スプリンター、アルノー・デマール選手は右端から迫ったが2位に終わった。
試合後のジャージを着ての表彰式は、フルーム選手がイエロー・ジャージで総合のトップ。グリーンがアルノー・デマール選手、登坂の優秀選手に贈られる赤の水玉ジャージは5日目優勝のイタリアのファビア・アルー選手、若手の殊勲賞、白のジャージは英国のイエーツ Yates 選手、敢闘賞は逃げ切りは果たせなかったがコースの9割を先行して走った3人のひとりレンゲン Laengen 選手に贈られた。
総合の順位:
1位 クリストファー・フルーム選手
2位 トーマス・ジェラン選手 (2人とも英国国籍でSKYチーム)
3位 ファビオ・アルー選手(イタリア)
7位 ロマン・バルデ選手(フランス人の最高位)
8位 アルベルト・コンタドール選手(スペイン)
9位 ナイロ・キンタナ選手(コロンビア)
日本の新城(あらしろ)ゆきや選手は105位とまたもすこし後退した。
ここで、この日トップでゴールラインを切ったマルセル・キッテル選手(ドイツ)と、 2位のアルノー・デマール選手(フランス)が総合ではどんな順位か調べてみよう:
キッテル選手は127位、デマール選手は137位なのだ。
このことは何を語ってるだろう?
ゴール前だけダッシュしてその日の優勝を飾ったとしても区間優勝の記録が残るだけでレース全体での総合的な順位にはあまり関係がない、ということ。
上の総合順位をみれば分かるように、年寄のベテラン選手は徐々に順位を上げてきているので、ゴール前の混乱で競い合うなんて危なっかしく阿呆らしくって、やってられるか、どうぞお先にと若くて血の気の多い選手に先を譲りさえする。
もうひとつ言えることは、選手のタイプに2種類あること。
総合の上位選手はみんな長距離に強い。我慢強くレースの全体をみながら力の配分を考える。
そして彼らに共通してるのは登坂、上り坂に強い選手なのだ。フルームしかり、アルー選手も5日目の急坂の登りを征しての優勝だった。コンタドールもキンタナも 小柄な身体を利点にして急な勾配を長時間登って勝利を飾るタイプだ。
2日目と昨日6日目に優勝したキッテル選手、2番手のデマール選手などはスプリンターと呼ばれる。失格にされたペーター・サガンもキャヴェンデイッシュも典型的なスプリンター。ゴール前の激しい先着争いも見ごたえはするが、なにもこの100m、数秒間のために200kmも走ったわけじゃあるまい。
トウールはマラソンの42キロを走る代わりに自転車という最も単純素朴な乗り物を使って3週間21日毎日自然の中を走るレースなのだ。そこには人間の耐久力、忍耐、疲労と苦痛を乗り越えて走り続ける選手たちへの感動がある。
普通の人間では耐えきれない苦難を乗り越え、または不幸にして途中で転倒し負傷して泣き泣きレースを放棄せねばならないなど、ドラマがある。
昨日6日目のゴールとなったトロワ TROYES という町は歴史がある。
16世紀のルネッサンス様式の木組みが外壁に露出した家が並んだ古い街。
中世からこの町は大きな市として栄えた。トロワ・オンスという重量単位と貨幣もある。
中世騎士道物語の代表「アーサー王伝説」に新しい登場人物ランスロットを加えた
「荷車のランスロット」などを書いたのはクレチャン・ド・トロワという吟遊詩人。
トロワにはマリー・ド・シャンパーニュが宮廷を構え吟遊詩人を保護した。この韻文の英雄譚はマリーの依頼によりクレチャンが書いた。
マリーはアリエノール・ダキテンヌの娘。
もひとつ重要な歴史的事件がトロワにある。「トロワ条約」
1420年5月21日締結された「トロワ条約」は、フランス国王の継承者を英国の ヘンリ―5世にする、というフランスの消滅を決めた条約だったのだ。
当時、南部アキテンヌ(ギュイアンヌ)とセーヌから北のノルマンデイーは英国の領地だった。パリは英国と同盟を結んだブルゴーニュ派とフランス(南部)の伝統を守り抜こうとするアルマニャック派が争い内戦状態にあった。
フランス王は「気違いのシャルル6世 Charles VI le Fou 」で、同じ年の12月6日に パリで三部会を開き、シャルル6世が亡くなった後はヘンリー5世をフランス国王とすると決めた条約を批准し、息子の王子(後のシャルル7世)は王位継承権を剥奪された。ために王子はパリを逃れブルジュ Bourge へ亡命した。
この条約は数年前(1415年)にイングランドから上陸したヘンリー5世率いる英国軍にフランスの騎士団がアザンクールで大敗を喫したことの結果とともに、ブルゴーニュ公、怖れ知らずのジャンが1419年にモントローの橋の上で暗殺され、それを命じたのがシャルル王子だった、と理由をつけてブルゴーニュ派のジャンの継承者フィリップ善良公が英国と謀って仕組んだ条約だった。
だが、歴史はフィリップの思い通りに運ばず、1422年8月にはヘンリー5世が死んでしまい、10月にはシャルル6世が没する。
ジャンヌダルクが現れ、イングランド軍に包囲されていたオルレアンを解放し、ロワール河流域の城と街をつぎつぎとフランスに取戻し、シャルル王子をランスまで引率して戴冠式を挙げさせフランスを復活させた奇跡が行われた背景にはこうした状況があったのだった。
TDF (トウール・ド・フランス)7日目の今日は トロワ→ニュイ・サン・ジョルジュ Troyes → Nuits-Saint-George の213km。 12:30 スタートです。
ブルゴーニュ・ワインの銘酒の産地、ブドウ畑に覆われた丘陵地帯を走ります。
(≡^∇^≡)



