ラフォンテーヌの生家を訪ねる その② | 雷神トールのブログ

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それでは家の中に入りましょう。

17世紀頃の民家だと廊下がなく、移動には部屋を横切らねばならない造りが多いですが、ラフォンテーヌの父親は農水産省の役人だったので、家の造りも小さなシャトーのように廊下で各部屋へ行き来できるようになっています。廊下は狭いです。

 

最初の部屋へ行く廊下の突き当りにまず、ジャン・ド・ラフォンテーヌの胸像が飾ってありました。

 

 

シャトー・チエリは公領だったのですね。そこの森林資源を管理する長官だった父親は社会的地位も高かったのでしょう。家の正面の壁に、ブルボン家の紋章の百合の花とCの字を組み合わせた文様が彫ってあるのもそのためかもしれません。

 

一階のサロンは広々とした明るい部屋で、真ん中の小さなテーブルを低い肘掛椅子が囲んでいます。若いジャンは、すでに詩に興味を示し、街の文学好きの男女を呼んではサロンで文学談義をしていたようです。

 

これは隣の部屋の暖炉と肖像画です。時代はさがって1684年、ジャンが63歳でアカデミー会員に選ばれた時の公式の肖像画、ルイ14世の肖像画を描いたリゴーによるものだそうです。

 

 

父親の意向もあったでしょうが、ジャンは20歳のときに神父になろうとしてオラトリオ修道会に入会します。しかしすぐに神父には向いていないと悟り18か月で退会します。

 

ジャンが最初に愛読した詩人はマレルブ( Malherbe )でした。前に投稿した寓話にも出てきましたね。マレルブの詩を庭で暗唱し、時に近隣の森へ行って朗誦したそうです。

 

1645~1647年、ジャンは今度は弁護士になろうとしてパリへ出て法律の勉強を始めます。

 

1647年、父親の奨めでジャンはマリ・エリカール(Marie Hericart)

と結婚します。マリは1633年生まれ、まだ14歳の少女です。でもこの時代、女性の結婚年齢は非常に若かったのですね。ジャンは26歳、12歳年下の奥さんです。

 

1654年(ジャン33歳)、無署名で最初の出版をします。5幕の韻文による喜劇でした。

 

1658年(ジャン37歳)、父親が没します。ジャンは伯父のジャック・ジャナール(Jacques Jannart )がニコラ・フーケの側近だったことから、取り次いでもらいフーケの面識を得ます。

 

財務長官、内務総監のニコラ・フーケ( Nicola Fouquet )は諸芸の守護者(メッセナ)でジャン・ド・ラフォンテーヌはフーケに詩を献上します。「アドニス Adonis 」という長詩は手書きで フランソワ・ショヴォー (François Chauveau)の挿絵付でした。ショヴォーはのちに「寓話」のすべてに挿絵を描いています。

 

翌1659年にフーケは自分の城、ヴォー・ル・ヴィコント Vaux-le-Vicomte を讃える詩をラフォンテーヌに注文します。「ヴォーの夢想 Le Songe de Vaux 」と題された詩が作り始められましたが、フーケが逮捕され投獄されたため、未完のままに終わります。

 

 

1663年、フーケの側近だった伯父のジャナールが左遷されリモージュへ流されます。ジャンは伯父に付き添って、ロワール河沿いの城下町、オルレアン、ブロワ、アンボワーズ、トウール、ポワチエと旅しながら妻のマリに6通の手紙を送りました。手紙にはジャンのフーケへの思いや、伯父が左遷されたことへの怒り、国王ルイ14世の専制に対する批判が書かれていたため生前は公表されず、死後に発表されました。手紙の一部が展示されています↑

 

ジャン・ド・ラフォンテーヌが生存中に出版された本↑

 

フーケが逮捕、投獄されたのは1661年のことで、その年に宰相マザランが没しています。マザランの死によって若き国王ルイ14世は「これからは朕がすべてを統治する」と宣言し絶対王政が始まります。

 

翌1662年には、ヴェルサイユに元は狩りの宿泊所だった城を当代ヨーロッパ随一の壮大な城にする工事が建築家ル・ヴォーの監督のもとに開始されます。

 

同じ年に「パンセ」の執筆者ブレーズ・パスカルが没します。

ラ・ロシュフーコーの回想録が出版されました。

 

ジャン・ド・ラフォンテーヌの書斎です↑

ここで「寓話」が書かれたのですね。床はトメットと呼ばれる素焼きのタイル張り。わりと狭い部屋です。

机が意外と小さいので驚きました。ローソクの光と鵞鳥のペンで書いたのですね。

書斎を出たすぐの階段の壁にシャガールのイラストが掛けてありました。ロシア出身のユダヤ人の画家にフランスの国民的詩人の詩にイラストを描かせることに反対意見が相当あったようですがシャガールは意に介せず堂々と自分の個性を出していますね。

 

家はこの町随一の立派なものでジャン・ド・ラフォンテーヌもこの家を愛したようですが、いかんせん詩人という気質は想像世界に遊ぶように出来てるため現実生活の管理能力に欠け、借金が次第に累積して、50歳を過ぎたころ、とうとうこの家を手放さなければなりませんでした。

 

この時代、作家には印税というものがなく、原稿を出版社に渡すのと引き換えに稿料を貰う。どんなに評判高く、増刷を重ねても著者には最初の原稿料だけでおしまいだったようです。

 

前々回投稿の「神々に守られたシモニッド」にもありましたように、詩人は社会から優遇されず、心身を削る創作活動も報われることが少なかったようです。

 

「シモニッド…」ではラフォンテーヌは詩人にもちゃんと報酬を払ってくれと書いてますね。すでにアスリートが優遇される時代だったのでしょうか? 払うと約束しながら、三分の一しか払わなかった罰に双子の神様が天井を落してアスリートの脚を折ってしまいますが、ここにはラフォンテーヌの嘆きが込められてるのですね。

 

現代はこの時代以上にアスリートがもてはやされ、反対に詩人や文学者はなかば笑いものにされてます。どんなに流行作家になったとしてもサッカー選手、とりわけマンチェスター・ユナイテッドに

帰還する際のポール・ボグバの140億円という天文学的報酬の

足元にも及ばないですね。村上春樹氏がつぎつぎベストセラーを出しても、ボグバの十分の一にも及ばないでしょうね。

 

印税がなかったという17世紀のフランスで、詩を書いていたラフォンテーヌはフーケというパトロン(メッセナ)を失い、ついに生家を売り払い借金を返済しなければなりませんでした。

 

19世紀の文豪バルザックもつぎつぎと名作を発表しながら借金取りに追われ、裏口からこっそり逃げる生活を送ってました。借金を返済しないまま死んでしまったところがラフォンテーヌとの違いですね。

 

 

「樵と死神」の壁一面を覆う大きな絵が掛けてありました。これは19世紀に描かれた絵で国が買い上げたそうです。この樵の苦悩を詩人は分かつことができたのでしょうね。

 

借金漬けの暮らしから抜け出ようとしたのか、こういう本を出せば売れると考えたのか、ラフォンテーヌはまじめな寓話だけでなく、ちょっとした「ロマン・ポルノ」も書いています。しかし売れなかったようです↑

 

反対に、「寓話」の評判は日に日に高まり、ジャンの生存中にもすでにフランスの各地で「寓話」の暗誦が始まり、子供たちはみな、いくつかの寓話を空で朗誦することができたのでした。

 

ジャン・ド・ラフォンテーヌは国民詩人になったのですね。

 

フランスだけでなく海外へも↑ 「らふうたんぐうげん」 中国で出版され、日本でも↓

 

 

日本での最初の出版は明治27(1894)年。54ページ、14の版画による挿絵入り。350部印刷されたそうです。

 

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