ラフォンテーヌの生家を訪ねる | 雷神トールのブログ

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昨日(3月23日)ラフォンテーヌの生家を訪れた。エンヌ(Aisne) 県のシャトー・チエリ(Chateau-Thierry)という町にある。

 

シャトー・チエリは人口15000人ほど(郊外もいれると35000人ほど)の中くらいの町でマルヌ河の河畔にある。

 

パリの東(やや北)85㎞、ランスの手前51㎞。パリの東駅から出ているTER と呼ばれる電車の停車駅がある。パリから車で行くには高速道路のA4号線をランス方向へ行き、ランスの手前50㎞で降りれば至って簡単なのだが、ブルゴーニュの西端、ロワール川に近い我が家のあるサンファルジョーからだと、大回りをして高速で行くか、県道を時間をかけて行くか? かなりしんどい旅となる。それでもフランスに居る間に見ておきたいとの思いに勝てず、雨もよいの曇天をついて思い切って出かけた。

 

シャトー・チエリのすぐ横を、10年前、最後の仕事をしているときに車で通ったことがあった。緑が多く、魅力的な所に見えたが、その頃はジャン・ド・ラフォンテーヌがここで生まれたとは知らなかった。

 

いくつかのルートが可能だったが、なんどか走ったことがある知った道を取ることにした。まず、オーセールへ出て、そこからトロワへ行く県道を走る。村の中を通り抜けるたびに時速30㎞に落さねばならないので時間が掛かる。それでも、この道の景色は変化があり快い。オーセールまで50㎞、オーセール~トロワが77㎞。

 

トロワを過ぎると風景は一変する。シャンパーニュ地方の広大な目地の果てまで平らな畑。カーナビは持ってないから事前にミシュランの地図で調べたルートを確認しながら走る。セーヌ河を橋で渡る筈がいつまで走っても河と出会えない。林に隠れて見えなかったらしく、いつのまにか右岸に渡っていた。しかたなく細い村道を行く。家の造りがロワール流域と似て黄色がかった白い石(テユフォ)で出来ていてなかなか風情がある。前をロードレースのトレーニング中のお兄さんが車に先導されながら懸命にバイクを漕いでいて、追い越す機会を待たねばならない。距離にして30㎞だがずいぶん時間が掛かった。

 

セーヌ河に沿って運河やいろんな名前の小川が流れている。夏この道をゆっくり走るのはいいだろうな。Aube 川という県の名前になってる支流もあり、複数の水路が入り組んでいる。畑の中の県道373号線を走りやっとセザンヌ Sezanne という町に出た。次のモンミライユMontmirail を過ぎれば、あとはシャトー・チエリまで一直線だ。

「ラフォンテーヌ記念館」が昼休みの間にお昼はシャトー・チエリの町でと考えていたが甘かった。行きは3時間と予測したが結局、5時間かかり、着いたら午後3時半。昼食抜きで目指す記念館を探した。

マルヌ川にかかる橋を渡り街の入り口に「ラフォンテーヌ」の全身像が立っている。クルマを市庁舎前の広場に駐車し「ラフォンテーヌ」立像を撮りに行く。

マルヌ川はまだ冷たそうで、このオジサンは釣りをしてるのかな?

街は川が削って出来たと思われる崖の際にあり、崖の上には城壁が残っている。

たぶんこっち方向だろうと細い旧市街の道を暫くゆくと、めざす「ジャン・ド・ラフォンテーヌ」通りがあった。

立像には「ラ・フォンテーヌ」と書いてあるが路の名前には「ラフォンテーヌ」と一語になってる。どっちなんだ?

オーカー色の壁の家が「ラフォンテーヌ」の生家。詩人はこの家に生まれ、この家を愛し、パリとこの家とを行き来しながら50歳過ぎまで
暮らしたが、財政的に行き詰まりついにこの家を売った。いまはミューゼアムになっている。

入口には門扉のついた門があったが取り壊され、いまは鉄格子の門になっている。門の脇には塔があったがそれも取り壊された。

 

この町でいちばん立派な家だったという。ジャンの父親は農林水産省( Eaux des Forets )のお役人だった。町の名士だったんだね。

 

中庭の左手の建物が受付で、ここで入場券を買い、オーデイオガイドを借りた。ガイドによると、ここは門番小屋と厨房だったと。

玄関上の装飾が謎なんだそう。なぜフランス王家の紋章の百合の花と、Cを組み合わせた紋章が刻んであるのか?

 

 

ジャン・ド・ラフォンテーヌはドが付く貴族の出身かとだれもが思うが、そこが謎、というか怪しく、貴族を偽って名乗ったと罪に問われかけた、と後のガイドでも触れていた。 ルイ14世に憎まれて失脚し、一生を監獄に送った財務長官でアートの守護者だったフーケ(Fouquest)がジャン・ド・ラフォンテーヌに資金援助をしていたおかげでジャンは詩を書くことができたが、フーケが逮捕され、資金援助が途絶えた。その後、ジャン・ド・ラフォンテーヌはルイ14世の息子の家庭教師となり、貴族の称号の不正使用疑惑も罪に問われぬことになったらしい。フーケの件といい、その辺、宮廷の人事は、絶対君主ルイ14世の気持ち次第でどうにでもなったのか? その辺調べてみたくなった。

 

この庭で幼いジャンは自然と触れる喜びを味わったという。

 

 

 

もひとつ、こんど知ったこと。ジャン・ド・ラフォンテーヌはラシーヌの姪と結婚したんだね。フランス古典劇中最大の悲劇作家ジャン・ド・ラシーヌと親戚関係にあったんだ。それと、ラシーヌ、ブレーズ・パスカル、ともにカトリックからは異端とされた「ジャンセニスム」の熱心な信者だった。ジャン・ド・ラフォンテーヌはどうだったのか? も知りたいところだ。

 

写真を60枚ほど撮ったので、今回は外部だけとして、次回に家の中の写真を投稿します。

 

帰りに裏側から見たラフォンテーヌの生家↑

 

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