フロンドの乱 最終回 大コンデ公のその後 | 雷神トールのブログ

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大コンデ公のその後について簡潔に記します……

1652年4月7日、ロワール河畔のブレノーでかつての部下テュレンヌと互角の戦いを行ったが、砲撃を受けて敗北、テュレンヌを取り逃がしてしまった。

ブレノーの戦いの後、テュレンヌを追ってパリへ北上、エタンプの反乱軍と合流して7月2日にパリのサンタントワーヌ門でテュレンヌと再戦した(フォーブール・サントノレの戦い)。

この戦いで劣勢になったコンデ公は、アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンがパリの門を開いたため入城、パリ陸軍の総帥となるが「この軍は馬鹿らしく、滑稽詩にでもするほかない」と自身で評したほど、規律も訓練もなっていない軍であった。

スペインの支援も当てにならず、居場所を無くしたコンデ公はパリから脱出、代わってルイ14世がパリに帰還した。

弟のコンチ親王はフロンド派として戦い続けていたが、1653年7月20日に、ペズナスの和睦により全ての軍を退き、これによりフロンドの乱は終結した。

兄の大コンデ公は11月、エーヌ川流域で冬営していた所をテュレンヌに奇襲されネーデルラントへ亡命、シャンパーニュの国境で戦っていた矢先の 1653年3月、パリ高等法院から欠席裁判で死刑判決を下された。

フロンドの乱終とともにマザランは亡命先から帰国して政権を取り返した。

客将として

謀反人として祖国を追われたコンデ公は、1653年からの6年間はフランス・スペイン戦争でスペインの客将として戦い、主にスペイン陸軍を率いてテュレンヌ率いるフランス軍相手に都市の奪い合いを繰り返した。

全体的にフランス軍が優勢の上、友軍のスペイン軍が当てにならないためコンデ公は徐々に押されていったが、1653年にロクロワを奪い、1657年4月にはカンブレーを包囲しようとするテュレンヌの陣地を騎兵2千で外から突破して市街に入城するといった離れ業を演じている。

しかしクロムウェル治下のイングランドとフランスが同盟したため5月にカレーでイングランド軍がフランス軍と合流、敵軍が完全に優勢となり、1658年にイングランド・フランス連合軍を率いるテュレンヌに包囲されたダンケルクをネーデルラント総督フアン・ホセと共に救援に向かい、6月14日にダンケルク付近の砂丘で交戦した(砂丘の戦い)。戦いはテュレンヌの圧勝に終わり、ダンケルクはフランス軍に落とされ、続くテュレンヌの侵攻も止められず敗北は決定的になった。

1659年、フランス・スペイン間のピレネー条約の講和によってテュレンヌが占領したネーデルラントの都市はフランスへ渡り、スペインの覇権は終わりを告げた。コンデ公は過去の罪を許されフランスに復帰する。



太陽王ルイ・14世から特赦を受ける大コンデ公

太陽王の元で

1668年、ブルゴーニュ総督となったコンデ公は、隣接するフランシュ=コンテ(スペイン保護下の自治領)を征服することを企てた。 陸相に就任したばかりのルーヴォワ侯の賛成を得ると2月に首府ブザンソンを包囲、ドール要塞を落とし、3週間もかからずに攻略を 完了するという速さであった。しかし、アーヘンの和約でネーデルラント継承戦争が終結した時、フランシュ=コンテは放棄された。

1672年からのルイ14世のオランダ侵略戦争に従いスダンで待機、マーストリヒトでルイ14世・テュレンヌが率いるフランス軍と合流 すると北上してオランダに接近、ライン川を渡りオランダへ侵攻したが、この時に生涯最初で最後の戦傷を負いテュレンヌと交代している。

しかし1673年にオラニエ公ウィレム3世が神聖ローマ帝国諸侯と同盟を結んで反撃に移るとフランスが危機に陥ったため、オランダからロレーヌへ派遣され、次いでネーデルラントへ回された。

1674年、モンス近郊のスネッフにおいて、約4万5千の兵力で6万と称されるウィレム3世の軍勢と会戦した。一度は後衛を衝いて大勝するものの、混乱を収拾した敵の堅陣に挑戦し、自分も部下も死地に陥り、馬を斃されて乗り替えること3回、「戦意を失わぬ者はコンデ公一人だった」と従軍した一士官が証言するほどの勇戦を見せた。

フランス側は戦死7千近くで捕虜5千、敵の損害もほぼ同数というこのスネッフの戦いで勝利した後、アウデナールデを包囲したウィレム3世に接近して包囲を解除させた。

1675年5月から6月にかけてサンブル川とマース川流域の制圧を息子のアンリ3世と共に行い帝国軍とオランダ軍を分断、8月にテュレンヌ戦死の後を受けてアルザス地方へ赴き、僅か2回の設営で知将ライモンド・モンテクッコリが指揮するオーストリア軍の進撃を阻止する。しかしこれを最後にコンデ公は軍を退き、シャンティイ城に隠退した。


パリ北方にあるシャンテイイの城↑

引退後も人気は著しく、モリエール、ラシーヌ、ボアローなどの文人たちと交わり、彼らが得意の学問や芸術についてのどんな話題を 持ち出しても、応答に窮することはなかったという。但し、中風に悩まされ、年齢よりも早く老けこみ、最後の2年間は大コンデの面影はもはや見られなかったとも言われる。

1686年、フォンテーヌブロー宮殿で65歳で死去。コンデ公位は息子のアンリ3世が継いだ。

コンデ公はテュレンヌと共に17世紀フランスを代表する名将の1人であった。コンデ公家はブルボン家の分家として以後も重用され、孫のルイ3世はルイ14世の庶子ルイーズ・フランソワーズと結婚、ルイ3世の妹ルイーズがルイ14世の庶子に当たるメーヌ公ルイ・オーギュストと結婚、ブルボン家と二重に結びついた。曾孫でルイ3世とルイーズ・フランソワーズの息子ルイ4世はルイ14世の曾孫のルイ15世の摂政を務めている。


以上を年表式にまとめると……。

1652年10月21日、ルイ14世はパリに凱旋しルーヴル宮殿を王宮とした。

弟のコンチ親王はフロンド派として戦い続けていたが、1653年7月20日に、ペズナスの和睦により全ての軍を退き、これによりフロンドの乱は終結した。

1654年3月27日、パリ高等法院はコンデ親王に「死刑」の裁決を下した。

以後1659年11月までコンデ親王はスペイン軍とともに戦う。ピレネー条約の締結によりフランスとスペインの戦争が終結。

1660年1月27日、コンデ親王はルイ14世の特赦を得て以後ルイ14世に仕える。

大コンデは1668年にブルゴーニュ総督となる。

1670年からはルイ14世のオランダ戦役に従う。

1675年のチュレンヌ戦死の後を受け、アルザス地方でオーストリア軍と戦ったのを最後に大コンデ公は軍役から身を引きシャンテイイに引退した。

1686年12月11日フォンテンヌブローで没した。最後まで意識明瞭で、静謐だったという。伝統に従い、心臓が取り出され、鉛の箱に入れられ、サンタントワンヌ街のイエズス派の教会に祀られた。

コンデ親王の死を知らされたルイ14世は「余の王国随一の男を亡くした!」と叫んだ。何度も大コンデと敵対して戦ったオランジュ公は 「ヨーロッパ一の偉大な男が死んだ!」と重臣に告げたと言う。

今回も「フロンドの乱」の表立った戦いばかりで通俗歴史読み物の域を抜け出ることが出来ませんでしたが、ここで連載を終わらせていただきます。

最後まで御愛読をありがとうございました。

 (おわり)


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