フロンドの乱 その22 ラ・グランド・マドモワゼル | 雷神トールのブログ

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さて、いよいよ大詰めです。

チュレンヌもコンデもそれぞれ自分たちが勝ったと自慢し、コンデ親王は、この後に触れるグランド・マドモワゼルに宛てた手紙であと一息で国王を捕虜にできたところだったと勝利を謳った。コンデ公は、4月11日、ボフォール、ラ・ロシュフーコーと共にパリへ引き籠る。

7月2日パリのサンタントワーヌ街で再びチュレンヌの宮廷軍と対峙する。この時はコンデ軍はパリの外から包囲されたパリを解放しようと進んできた。

バスチーユ監獄の砲台から大砲がチュレンヌ軍めがけて発射された。グランド・マドモワゼルがコンデ親王をパリへ入場させる為に発射させたのだった。

グランド・マドモワゼルは、アンリ4世の3番目の息子で、ルイ13世の弟(つまりルイ14世の叔父)のガストン・ドルレアンとモンパンシエ夫人の間に出来た娘(ルイ14世の従妹)で、名前をアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン、モンパンシエ公爵夫人という。

この事件をルイ14世とマザランはペールラシェーズのシャロンヌの高台から観ていた。後(同年10月21日)にグランド・マドモワゼルは追放令(流罪)を受け取る。

こうして、めのおが住んでるサンファルジョー村へ一種の流罪(島流し)に遇って移り住んだんだね。

流罪とはいっても国王の姪たる人物。グランド・マドモワゼルは当時ヨーロッパで最も豊かな女性だったことから、古くからあった城砦をヴェルサイユ宮殿を設計した建築家ル・ヴォーに依頼して古典様式の城館に建て直し、それから4年間、ここでヨーロッパでもっとも豪華なサロンを開き、文人を招き、雑木林と牧草地ばかりの田舎に華を咲かせたのだった。


庭から見たサンファルジョーの城↑

性格は大胆、エキセントリックで、様々な王室から輿入れを持ちかけられたがすべて断り、自分でレオポルド大公と婚約を結ぼうとしてアンヌ太后に𠮟責を受けた。

その時は、モットヴィル夫人が弁護し、ついにその「小さな演説が効を奏して」グランド・マドモワゼルは許された。


↑ ラ・グランド・マドモワゼルの肖像

モットヴィル夫人は、この我儘な姫の性格をこう書いている。
「マドモワゼルは気性の活発さで、すること皆を駄目にしてしまった……。もう少し穏やかなやり方をしたら、何でも、もっと上手く行ったろうに」。

ほんとうは、親子ほど年齢の違うルイ14世と結婚しフランス王妃になりたかった、という歴史家もいる。

1652年から4年間、サンファルジョーの城で暮らす間にグランド・マドモワゼルのサロンに出入りした文人には、ラ・ロシュフーコーは勿論、セヴィニエ夫人、ラファイエット夫人、作曲家のリュリー、建築家のル・ヴォーがいる。

サンファルジョーの城は2回も大火に遇い、見る影もなく落剝し、現在も内部が修復されていない。つぎに歴史に登場するのは大革命の時で、その時の城主はル・ペルチエといい、フランスで最年少で高等法院の裁判官となった人。

ルイ16世の処刑に賛成票を投じ、護衛官パリスにパリのパレ・ロワイヤルで刺殺されてしまった。死ぬ直前に国民公会に議案として提出準備をしていた「国民教育案」はコンドルセの公教育論とともに現代の日本にも義務教育の拡大という形で、教育費の公的負担が議論されることにつながっている。

フロンドの乱の歴史的評価、意味について、近年活発な意見が交わされているのだが、それなりの評価、意見を持つには中世から近世にかけての少なくともフランス史全体にわたる視野が必要だし、そんな大それたことをする積りはない。

ただ、高校の世界史の教科書にあったような、ルイ14世が中央集権化を進める中で、封建領主たちが従来からの権益を奪われることに反対して反乱を起こした、などと保守的な動きとして捉えるのは的を得ていず、むしろ高等法院が果たしたのは、立憲君主制へ一歩近づける役割であったし、今回書けなかったが1651年にパリのコルドリエ修道院に集まった三部会(エタ・ジェネロー)は立法府として議会の権力を強めようとする動きだったなど、1789年の大革命への準備段階と捉えるべきかと思う。

次回は、その後の大コンデ公の歩みを追って最終回としたいと思います。

 (つづく)


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