フロンドの乱 その21 大コンデ公対チュレンヌ大元帥 | 雷神トールのブログ

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かつてはヴァンセンヌの城砦に閉じ籠められたコンデ親王を救出に軍を率いたチュレンヌが、どんな経緯でコンデ親王と敵対し宮廷軍の指揮を執る様になったか?

ル・アーヴルの要塞から釈放されたコンデ親王がそのまま黙ってマザランの支配に従うわけがない。

コンデ親王に権力を奪われるのを怖れたか? それともケルンからの手紙によるマザランの指示に従ったのか? アンヌ太后ははかつて大コンデ公の部下だったチュレンヌを元帥の中でも特別のゼネラル元帥(日本語で言うなら大元帥となろうか)に 任命した。以後、フロンドの乱の終幕部はコンデ親王と大元帥チュレンヌの戦いになる。



釈放され自由の身となった大コンデ公は、マザランとアンヌ太后により逮捕され13か月も暗く冷たい城砦に閉じ込められた屈辱を忘れ得なかった。

誰よりも気位が高く、自己中心的で、人の世話になるのが嫌いな性格のコンデ親王である。以後、公然と宮廷に叛旗を翻し、ギュイエンヌ地方へ、ラ・ロシュフーコーとボーフォール公爵とフロンド党の軍を集めに向った。



↑フランソワ・ラ・ロシュフーコーの肖像

その時の国王軍にはチュレンヌが率いる軍と、アルクール元帥が率いる軍がいた。アルクールは、北方戦役で大勝利を飾った大コンデ公の代わりにマザランが総指揮官に任命し、コンデ公の不服を買った元帥である。

1652年4月1日、大コンデ公はロリス(Lorris )というロワール河近くの小さな町に駐屯していたヌムール公の軍とガストン・ドルレアンがボーフォール公に託した小隊に合流した。ヌムール公とボーフォールは義理の兄弟だが仲が悪く、コンデ公が両軍の指揮を執った。

チュレンヌ率いる宮廷軍はブリアール( Briare ロワール河沿いの町 )に布陣し、国王は隣町のジアン( Gien )の城で休んだ。

この時、宮廷軍のオッカンクール元帥率いる軍が不用心に、ブレノー( Bleneau )という村へ軍を進めた。ブリアールから20kmほどのところである。めのおが住んでるサンファルジョー からわずか12kmのところにある。

4月6日の夕方から7日にかけ、コンデ軍はオッカンクール元帥率いる宮廷軍の横腹を攻め撃破した。オッカンクールはオーセール方面へ逃げた。

数時間の間、ルイ14世はジアンの城で捕虜になるのではと恐れた。チュレンヌはコンデ軍より数で劣ったが果敢に攻撃し、巧みな戦闘をし、ヌムール公が腰に負傷するなどもありコンデ軍はエタンプ方面へ退却した。

この戦いは「ブレノーの戦い」として戦史に残されている。後にナポレオンは回想記でコンデとチュレンヌ二人の将軍を批判し、コンデ軍は数において勝ったのだからもっと押すべきだったし、チュレンヌはコンデ公という栄光に満ちた将に率いられた軍に対しリスクと取り過ぎたと批判している。

 (つづく)


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