フロンドの乱 その⑳ 続・女性たちの活躍 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

前回ド・モットヴィル夫人のシャトーの写真を載せたので、ここで補足的にド・モットヴィル夫人について記しておきます。

フランソワーズ・ベルトー・ド・モットヴィル Francoise Bertaut de Motteville は1621年(1615とも1623との説もある)に ノルマンデイーのコー( Caux )地方(ル・アーヴルとルーアンの北の高台に広がる地方)に生れた。

伯父に司教で詩人のジャン・ベルトーを持ち、父は宮廷に仕官し、母はスペイン貴族の出身で、やはりスペイン出身の王妃アンヌ・ドートリッシュの知己(友達)であった。

フランソワーズが7歳の時、母はアンヌ王妃の許へお目見えに連れてゆくが、当時ルイ13世の顧問として権力を振るっていたリシュリュー枢機卿が、スペイン語で王妃と会話が交わされるのを嫌いフランソワーズを遠ざけた。ノルマンデイーの田舎に母親と帰ったフランソワーズは成人まで静かに暮らした。

18歳でフランソワーズは結婚する。相手はなんと80歳の老人。ニコラ・ラングロワ Nicola Langlois。この人がモットヴィルの田舎の領主でノルマンデイ会計院の初代院長だった。モットヴィルの城館はこの人の館だった。結婚が1639年で2年後にはラングロワ老人はあの世に逝ってしまう。

リシュリューとほぼ同時にルイ13世も没し、アンヌ・ドートリッシュが当時まだ5歳だったルイ14世の摂政となる。

それが1644年で、フランソワーズはアンヌ太后にさっそく呼ばれて宮廷に暮らすことになり、太后の筆頭侍女として太后が没する1666年まで日々傍近くに侍り、親密な内容に至ることまで相談相手として仕えた。

フランソワーズは文才があり、早くから忘備録を付けるのを習慣にしていたが、「回顧録 Memoires 」を書いたのは太后が亡くなった後の1666年以後で、この本は1723年に出版された。

フロンドの乱に戻ります。


コンデ親王が逮捕された時に、妹のロングヴィル侯爵夫人はパリの館から捕手を逃れ脱出したが、その時、留守中の支援を確約した女性が居た。 パラチナ公妃(Princesse Palatine 当時美人として有名だったアンヌ・ド・ゴンザグ)は「ロングヴィル公爵夫人に役立つことを確約し、 実際、非常な敏腕と勇気で実行した」。1651年にコンデ親王はじめ3人の釈放要求をし交渉した貴族たちの中に彼女も混じっていた。

さらにまた、北方でのスペインの協力を得るうえでシュヴルーズ公爵夫人も活躍した。この夫人とは釈放されたコンチ親王が婚約しようとして姉の ロングヴィル公爵夫人に反対されている。シュヴルーズ公爵夫人はスペイン領ネールランドのレオポルト大公にフロンド党への協力を取り付けた。 この大公は、後に出てくる、ルイ14世の姪のグランド・マドモワゼルが父親の了解なしに勝手に婚約しようとした人物である。



↑ シュヴルーズ公爵夫人

しかし女性群の活躍の中で、なんといっても花形はロングヴィル公爵夫人だろう。

再び「ド・モットヴィル夫人の覚書」を借用すると
 「(デイエップの要塞に乗り込んだ夫人は、)ノルマンデイーを味方に付け、王に反抗させるため、市民や、兵や、民衆の前で、 力強く演説し(この時代女性が民衆の前で演説することはすべかざることとされていた)、優しく謙(へり下)った懇請を用い、彼女を守るよう人々を動かした。 やがて、(国王とアンヌ太后、マザランのノルマンデイー巡幸により)、逃走を余儀なくされたが、海に落ちて危うく溺れそうになりながらも、 力を取り戻し、勇気を盛り返すと、再び危険の中に身を投じた。風が高まり海を行くことが不可能になったので、馬を選び、夜を徹して進んで行った。 お付きの侍女もそれに倣った」


ロングヴィル公爵夫人はブロンドの渦巻くような髪、白い肌に青い目という典型的な美女で、女性たちには多少「自信過剰」と見られていた嫌いがないではなかった。 モットヴィル夫人は書いている。

「偉大な企みも、激しい情念も可能な彼女の魂は、運命が齎すかも知れぬ最高の栄光と尊敬の幻影に迷わされていた。……この甘い毒は、その想像力を損ない、 女の通常の徳を軽蔑させ……全フランスの崇拝を得ようという望みで一杯にした」

 (つづく) 


ペタしてね