「フロンドの乱」前書き | 雷神トールのブログ

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ふつう世界史の教科書などに書いてあるフロンドの乱は、中央集権を強化し絶対王政を確立しようとするマザランの摂政政治に対する地方貴族たちの反乱とされていますが、そうではなく、反乱は法服貴族と王子たちによるもので地方の貴族たちは動かず、なにもしなかった。

 

そして法服貴族と呼ばれてはいるが実際は貴族などではなく宮廷の役人にすぎなかった。

 

高等法院の裁判官は国王を補佐する役目を持ち、封建時代の領主の様に各個人が権力を持っていたわけではなかった。

 

しかも法服貴族が現れたのは1604年と17世紀に入ってからだった。

 

フランスの貴族制度は非常に古くからあり、フランク族の一部族のクロヴィスが北方から侵入してきて、現在のフランスのシャンパーニュ地方のランスのカテドラルで聖油による秘跡を受けフランスの国王の座についてからフランスの王朝とカトリックとの結びつきが始まるが、クロヴィスは古くからあるフランク族の貴族制とローマの貴族制度を合体させフランスの貴族制度とした。

 

アンシャンレジームでは、中世以来の偉大な武将の家系が古くからの貴族としてあった。軍人の貴族を「帯剣貴族 la noblesse d'epee 」と呼び、これは世襲制だった。この時代の人々は勇気は父親から息子に伝わると考え、父親がいくさで戦功を立て、貴族に叙任されると、以後子孫は貴族の称号を世襲した。

 

帯剣貴族は往々にして法服貴族(la noblesse de robe)を軽蔑した。

 

17世紀には、旧時代からの大貴族はおよそ100家あった。これには国王の血を引く、いわゆるプリンス(親王、公爵よりも位が上の大公)が含まれる。

 

高位の貴族の次男坊以下は、大体はカトリックの聖職者の重要な職務についた。大司教、司教、司祭、神父、女性の場合は王室大修道院長といった具合に。

 

そうした知識をもとに「フロンドの乱」をふたたびみてみよう。

 

この乱は「第一期」と「第二期」のふたつに分けて考えられている。

「第一期」は法服貴族と主にパリのブルジョワ(市民・町人たち)の反乱。ブルジョワたちは戦争継続のために税をとられることに反抗して パリ市街にバリケードを築いて反乱を起こし、パリ高等法院の法服貴族たちは、マザランが権力を強化し自分たちの国政への意見具申が制限されるのを不満として反抗した。

 

最初ブルジョワは法服貴族が最後まで一緒に闘うものと信じていたが、マザランが示した和解策であっさり妥協してしまい、パリ市民の反乱は簡単に鎮圧されてしまった。

 

パリ市民の反乱を先頭に立って指揮したのが、プリンスのひとりコンチ公(アーマン・ド・ブルボン・コンチ)で、反乱を鎮圧した指揮官が、 コンチ公の実の兄、大コンデ公、正式の名がルイⅡ世、ルイⅡブルボン・コンデ、アンギャン公、Louis II de Bourbon-Condé Duc d'Enghien de Condé de Monmorancy)。父親のアンリⅡ・ド・ブルボン、コンデ大公が没してからはコンデ公、モンモランシー公、アンギャン公を名乗った。 アレキサンダー王の再来と言われたほどの軍事的天才で21歳にしてマザランに北方戦線の指揮官に任ぜられ華々しい戦功を立てた。それで、他のコンデ公と区別する意味で「大コンデ公」と呼ばれている。

 

 

血筋の上から「大コンデ公」はフランスの王位継承権の二番目に位置する人で、ルイ14世が幼少(5歳)のため治世ができず母親のアンヌ・ドートリッシュとイタリア人の枢機卿マザランが摂政としてルイ14世の代わりに王権を担当したわけだが、ヴォルテールなどは大コンデ公には国を治める能力があったのだから、国王になればよかった、とその「ルイ14世の世紀」の初めに書いている。

 

最初だけ義経と頼朝みたいに実の兄弟同志で戦ったんだね。この二人の兄弟は、ルイ14世を出したブルボン家の分家のアンリⅡ世の息子で、コンデ公が長男、コンチ公は末っ子。あいだに娘のアンヌ・ジュヌヴィエーヴがいる。ジュヌヴィエーヴはロングヴィル公に嫁ぎ、アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン・コンデ、ロングヴィル公爵夫人を名乗った。この3人が第二期フロンドの乱で大活躍します。

 

末っ子のコンチ公(アーマン・ド・ブルボン・コンチ)は詩や音楽を愛する文人肌の男子で、パリのブルジョワに担がれて反乱の先頭に立ったものの、戦闘経験もなく、烈戦の勇者大コンデにやすやすとひねりつぶされてしまった。

 

しかし、そこは肉親の兄弟の間柄、大コンデは次第に末の弟が支持する「フロンドの乱」の言い分に耳を傾けていった。

 

王位継承者であり、偉大な武将が反乱側についたら大変、とずる賢いマザランは、兄弟二人と妹婿ロングヴィル公を逮捕させてしまった。

 

三人は最初はヴァンセンヌについでル・アーヴルの要塞に閉じ込められた。三人の釈放を巡って妹のアンヌ・ジュヌビエーヴが大活躍し、目出度く出獄します。さあ、マザランはたいへん、パリを捨ててドイツに亡命しました。大コンデの怒りがどんなだったか理解できるよね。

 

大コンデは一旦ボルドーへ行き、そこで味方を募り、ラ・ロシュフーコーの支援を得て、パリへ攻め上ります。

 

以上が荒筋です。明日からは、4年前にこのブログに投稿した記事を補完訂正して連載させて頂きます。