アーサー王伝説に出て来る聖剣エクスカリバーは岩に突き刺さっており、国王となる者だけがこの剣を引き抜くことができる。これはもちろん伝説が発明した架空の話で、実際は剣を鋳造する段階で型から抜き出す時の工程を神話化したものだろう、とか、ヨーロッパの現ウクライナの小部族の伝統に地に剣を突き刺すことがあったとか、いやアーサー王伝説そのものが、時の支配者のローマ帝国の代官の様な形で、地方行政を請け負っていたアラン人の伝説から出たもので、アラン人は戦死した騎士の土饅頭の墓に剣を突き立てる伝統があった、とする説などいろいろあって面白い。
めのおは昔見た黒澤明の「七人の侍」の最後の場面で、生き残った指揮者役の志村喬と若者が村人と別れる場面で、戦死した侍の土饅頭の墓に刀が突き立てられている光景が映し出されていたのを思い出す。
アラン人がローマの代官として当時のヨーロッパを治めたのは歴史的事実で現在もAlanとか Alainとかが人名や地名に残っている。アーサー王のモデルになった英雄的騎士がこのアラン人の代官のひとりだったという説もある。
伝説では、フランスから美男で戦いにも強い一人の騎士がやってくる。それが「ランスロ(またはランスロット)」でアーサー王の妃グイネヴィア姫は一目見た途端恋に陥る。ランスロとグイネヴィア姫の恋が原因で、平和で平等な王国が実現するかに見えたアーサー王の国、は崩壊へ向かって滑り出す。
ジャンヌダルクが出現して、占領されかけていたフランスから英国を追い出すまで、フランスはこうした個人を主体とする騎士たちが 国を守り政治を掌る国王と宮廷を支えていた。
英仏百年戦争の間にクレシーの戦い(1346.8.26)、ポワチエの戦い(1356)、アザ(ジャ)ンクールの戦い(1415.10.25)となんども両国は戦火を交え、いずれも数の上で英国軍を上回りながら、旧態然の連携を欠く騎士個人による突撃戦法しかとらなかったフランスが敗れ、この闘いで大量の上級貴族を失い、フランスの貴族制を壊滅的にした。
戦術の稚拙さと、使った武器、イングランド軍が長弓を使用したに対し、フランスは昔ながらのいしゆみ(ウイリアムテルが息子の頭に乗せたリンゴを射るときのあの短い弓)だったし、長弓の方が矢継ぎ早というように短時間でたくさんの矢を放つことができる。長距離を飛んだ矢はなお威力が強く、フランスの騎士が着ていた鎧を射抜いたというのだが、初期の1300年代はまだ鋼鉄を作れなかったかもしれないが、アザンクールの時代には鋼鉄を作る技術を持っていて騎士が着ていた鎧は長弓の矢でも射抜けなかった筈、という説が最近公表されている。
1415年のアザンクールの戦いはフランス軍2万5千~4万5千に対しヘンリー5世率いるイングランド軍は1万5千だった。勝敗を分けたのは前夜降り続いた雨で地面がぬかるみ、重い鎧を着ていたフランスの騎士は馬の脚をとられ、落馬しても鎧の重みで起き上がれず、そこをイングランドの百姓あがりの兵士が棍棒など武器に使えそうなあらゆるものを持ってよってたかって殴り殺したといわれる。丘の上をイングランドが陣どり、フランスは丘の麓だったという 陣取り合戦ですでに負けていたんだね。
ヘンリー5世率いる英国軍は冷静に陣地を選び、長弓隊を上手に使った。英国の勝因が飛距離が出て、矢を継ぐ速度が速い長弓にあった、というのが通説だったが、近年古戦場を発掘して調査した結果、必ずしも長弓のせいではないとの意見が出た。それは、この時代すでにフランスの騎士たちは弓を貫通させない鋼鉄製の甲冑を作る技術を持っていたし、甲冑を身にまとって戦に臨んだのだが、陣地を油断して条件の悪い丘の下に構え、前夜に大雨が降ったことから足元がぬかるみ、数において優勢だったことが災いして、味方同士ぶつかり合い存分に武器を振うことが出来ず、逆に百姓上がりの混成部隊だった英国側の武器と言えば棍棒などでなりふり構わずに振り回し、馬から引き摺り落として、所かまわずブッ叩いた、そういう戦法に殴り殺された騎士たちが続出して敗北を喫した。
フランス側の犠牲者は騎士1500、兵3000。
ブラバント公、アランソン公、バール公、ネヴェール伯、ダマルタン伯、ヴォークール伯が戦死した。
対してイングランドはわずか300~500だったといわれる。ヨーク公が戦死している。
フランスにもっとも痛手だったのはこのいくさで沢山の捕虜が出たこと。最高はオルレアン公で、以後25年間英国で捕虜生活を送る。 ブシコー元帥、シャルル・ダルトワ、アルクール伯などが捕虜になった。この時代、多額の身代金を払って捕虜を釈放してもらうのが 一般的で、少し時代がさがってから、フランス王フランソワ1世はカール5世軍の捕虜となりスペインに幽囚され多額の身代金で釈放された。
長弓を持ち、集団的戦闘を中心に据えた英国軍に対し、フランスはあくまで個人中心の騎士と騎士の一騎打ちがいくさの正統な形だ と頑固に信じ、そのような戦い方をして敗れたのだった。
アザンクールの闘いはフランスの騎士により構成されていた貴族社会を壊滅的状況に陥れた。