八鹿に着く ルーツ探索の旅 その④ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

これを書いている4月の末、フランスでも地震があった。珍しいことだ。震源地は大西洋岸のラ・ロシェル。震度は4。南のボルドー、北のナントでも揺れたという。被害は少なく、天井の一部が崩壊した程度。はじめて地震を経験した、という書き込みがニュースの下についていた。フランスで地震がたまにあるのはイタリーとの国境付近やアルプスの山岳部なのだがボルドーとかラ・ロシェルとか大西洋岸では極めて稀だ。地球全体が変容でもしてるのか?


生野電車

祖父の名は長嶋唱一といい、明治20年3月15日生まれの人。子供の記憶に焼き付いている祖父の思い出といえば、食事が終わるたびに口から取り出して茶碗のさ湯につけて洗う入歯。ピンク色をした半楕円形の入歯が口から取り出される様子は子供にとって驚異だった。

祖父は白髪頭で縦長の顔をしていたが、祖母は丸い福よかな顔で身体も大きく肉付きのよい体格をしていた。この祖母に私は2年間育てて貰った。

いま気づいたが、姫路からだと生野が先で竹田は後になる。


竹田
  竹田駅のホームのすぐ脇に石垣の下の側溝に鯉が泳いでるのが見えた。電車から獲ったもの。


その家は小川の畔にあって、縁側が半ば川の上に突きだし、端にあった厠は下を覗くと水の流れが見えた。川の向う岸から田んぼが広がり遠く視界を縁取るように低い山並みが連なって見えた。夜にはキツネの鳴き声が聞こえるまったくの田舎だった。バスなども通っていたのだろうか? 記憶にない。

姫路から祖母に連れられ播但線で八鹿駅に着き、そこから馬が牽く荷馬車(当時は馬力=バリキと呼んでいた)の後ろに座って、小川に沿って曲がりくねった田舎道を家まで揺られていったのだった。この小川に沿った田舎道の光景は今でもはっきりと眼に浮かぶ。

祖母と二人きりで暮らした田舎の生活は4~5歳の子供にとっては、寂しいとか親が恋しいとかの感情はなく充足したものだった。

春には川端の土手にネコヤナギが芽を吹き、ツクシと蕗の薹を摘んだ。祖母が煮てくれた蕗の薹は子供には苦くて食べられなかったがツクシは食べたように思う。夏には近所の子供と小川に盥を浮かべ膝くらいまでの浅い水に入って遊んだ。まことに「ふるさと」の歌にあるそのままの生活をしていたのである。


八鹿駅

八鹿駅に着いた時は案じた通りすでに薄暗くなっていた。和田山の駅から電話をして置いたので、少し経つと軽自動車が現れ、車から降りた女性が走って向かって来た。それが今回の宿泊先「体験施設・いろり」の管理人、河辺さんだった。記憶の場所の脇を通るのではとの期待が甘かったことはすぐに分かった。車はかなり明るい町の中を走り、脇を流れるのは川幅の広い立派な川だった。

スーパーで「買い物をされますか?」と停まってくださった。「いろり」宿泊施設は自炊なので、食品を持って来てあったが、飲み物ほか2日分には足りないので、ありがたく買い物をした。出来たばかりの新しいスーパーで田舎のイメージとは別の世界がもう出来上がってしまっている。

河辺さんのお家から八鹿の駅まで25キロあると聞いて驚いた。せいぜい2~3キロと想像していたのだから。

記憶の景色と比べながら道の両側の風景を見ていたが、山がずっと近いように感じた。大きな橋を渡り、トンネルを潜り、やがて小さな村に入り、ここが小学校、これは大杉地区の市役所です、と説明してくれた。八鹿の村は市町村合併で養父市に編入され、駅名だけに「八鹿」の名が残っている。

 (つづく)