今回の「ルーツ探索」の小旅行の目的地は「八鹿」という田舎。姫路は「八鹿」へ行くルートのひとつである播但線の始発駅なので、ついでにお城を観に寄ったのだった。
翌朝は7時過ぎにホテルを出て、天守へ登る整理券を貰う列に並んだのだが、この日午前中に撮ったお城の城壁や石垣と桜の日本画の様な写真を貼るのはやめておく。私が熊本大地震のニュースを聞いた最初は、この小旅行の最後、姫路城の夜桜を見てちょうど一週間後に父の一周忌のために東京へ行き、高校時代の親友と再会するため品川宿にあるゲストハウスに泊まった翌朝だった。パリから来た中年のフランス女性の二人組が九州で地震があったと教えてくれたのだった。
その後どこかで熊本城の天守の瓦がすべて滑り落ちた写真を見た。地震がどれほどすさまじい揺れだったか。橋や二階建ての建物の一階が潰れ宿泊していた大学生が十数人生き埋めになっているというニュースも聞いた。いまだに大勢の人が避難生活をしていると聞く。災害の前だったから「春爛漫」の桜に囲まれた華やかなお城を楽しむことが出来たが、地震の後だったら、同じように浮かれて見ることはできなかったに違いない。昨日、小田原城が修復が終わって再開したというが、入場料の全額を熊本へ寄付したと言う。
阪神大震災の時、姫路も揺れたに違いない。そして城を守る人たちは危機を感じたに違いない。それが今回の平成大修理へと繋がったのではないか。天守を見て知ったのだが、東西二本の天然の木の柱の根元が腐っていて取り換えたという。山から大木を切り出し、運送の途中で傷めてしまい、根元の5mほどを接ぎ木したという。これだけの城を材木で支えているのだから昔の人の技術は大したものだと感心する。
天守の内部は昔と変わっていなかった。ただ、最上階へ上る階段が昔はすり減って丸くなり滑りやすかったのが、厚い板が取り換えられて四角くなっていた。
夕方、日のあるうちに目的地の「八鹿」へ着くために、午後、播州赤穂へ電車で行き、市役所と城址をさっと見て、また姫路へ戻った。
市役所へ寄ったのは、ここもルーツ探索の一環だから。私のルーツの一方、父方の祖父(義理の祖父となるが)の本籍が播州赤穂だから。
市役所で戸籍係の窓口を見ながら、迷ったが結局、今回は見送ることにした。父が養子に貰われていった先の本籍ということもあり、直系親族と認めてもらえるかとの危惧があった。ややこしい関係を説明しなければならないし、窓口が混んでいたこともあり、次の機会に譲ることにした。
赤穂義士の石像が並ぶ大石神社の入り口
ついでながら、父にDNAを授けた血縁上の祖父の名は山田であり、満州鉄道の駅長をしていたが父が5歳の時に亡くなり母に連れられ養子に行った。父の生まれた土地は満洲、鳳城県四台市である。
そもそも今回ルーツ探索の旅を思い立ったのも、昨年4月に父が逝き、その際取り寄せた戸籍謄本に、私が幼少期4歳と5歳の2年間を過ごした土地の住所が載っていたからだった。それまでもなんどか、この心の故郷を訪ねたいと思った。ただ、67年も前に見た風景の視覚映像だけを頼りにその場所を突き止めるのは容易ではないと諦めていたのだったが、こんどその住所が判ったので、実行することに決めたのだった。
幼少期の私を2年間、田舎のなにもない小さな家で守ってくれた祖母は母方の祖母である。昨年父が死ぬ直前に、なんであんな田舎に居たのか? と普通なら子供が訊かずとも親が言って聞かせる筈のことを改めて訊いてみた。返事は「あそこが長嶋(母方の姓)の本籍だったからだよ」というものだった。
播但線の乗場はホームへいきなり改札から入るごく簡単なもので、電光掲示板に表示されてる電車はみな途中までなので、駅員さんに「八鹿」へ行きたいのだが急行はないのか? 訊いたところ、この時間急行はなく、途中で2回乗り換えねばならない、という返事で、先発の電車に乗ると何時に着くか? 訊いても「わかりません」とつれない返事だった。
宿泊先の民宿の人が駅まで車で来てくれることになっていたので到着時間を知らせねばならなかったが、まず路線図を見て、「八鹿」の駅が「養父」の後にあると知り、あわてて養父の宿泊先へ電話した。
わざわざ遠い八鹿まで来てもらうのは気の毒に思ったのだが、ご主人は養父の駅には行きにくいと言われ八鹿でいいとなった。私にとっては想い出の八鹿駅に立ってみたいので、都合が好かった。
3時発の電車で、このぶんなら明るいうちに八鹿に着き、運が良ければ、途中思い出の場所を通るかも知れない、と都合好く考えていたのだが、あいにく播但線は単線のワンマンカーのローカル線で、予想の倍ぐらい時間がかかった。
途中、もうずいぶん前にブログにある方が投稿された「天空の城」の竹田で停まり、風格ある黒く艶のある屋根瓦の屋敷と塀の下を流れる側溝に鯉が泳いでるのを眺めながら、この調子じゃ日が暮れてしまうな、と諦めたのだった。
生野に近づくほどに両側に山が迫り、この路線がこんなにも山道を走ることなど全く予想していず、山並みは遠くにあり平坦な田んぼの中を走るとばかり思い込んでいた記憶を修正しなければならなかった。
生野は平安時代から江戸にかけ豊富に銀を産出し日本で有数の銀鉱山で有名だった。
「おおえやま、いくののみちのとおければ、まだふみもみず、天の橋立」
小倉百人一首の第60首、小式部内侍(こしきぶのないし)の歌。
小式部内侍は和泉式部の娘で幼い頃から和歌の才があると有名だったが、陰で、母親の和泉式部が代作してるのでは、と噂をたてられた。ある日、和泉式部が丹波へ行って留守中に、小式部内侍が歌会に呼ばれ、とある歌人が、代作をしてくれるはずの母親が不在で、使いも戻って来ず、さぞお困りでしょうな、といやみを言って通り過ぎようとしたところを、小式部内侍は袖を掴まえ、即興でこの歌を詠んだ。その才能に驚き、嫌味を言った主は返歌どころか声も出せず逃げ去ったという。
この歌とそれを詠んだ才能がすごいのは、生野という地名と「行く」の野道を掛け、さらに天橋立を踏んではいない、「踏む」と「文」を掛け、母からの文なんて見てもいませんわ、なにをお門違いをおっしゃるのでしょう、とぴしゃりと嫌味な奴を叩き伏せ、即興でそれをやった美事さにある。この噂がひろまり、小式部内侍の評判はいや増しに高まったという。
(つづく)