あれから一年 - その② | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える


レピュブリック広場でのレクイエム

1月10日午前10時40分から、パリのレピュブリック広場で、昨年1月7日~10日にかけてのシャルリー・エブド襲撃、ポルト・ド・ヴァンセンヌのスーパー、カーシェールでの人質殺害と立て籠もりテロの犠牲者に対する慰霊祭が行われた。

オランド大統領、ヴァルス首相、イダルゴパリ市長、上院議長。政治家のスピーチは無く、黙祷と歌による静かなセレモニーだった。

ロック歌手のジョニー・ホリデイーが「一月の日曜日」を歌い、若い演劇人二人がヴィクトル・ユゴーの共和国についての断片を朗読し、さらに海軍のコーラスが「さくらんぼの実る時」Au temps des serises を合唱した。この歌は1870年、フランスがプロシア軍に包囲され、ナポレオン三世が捕虜となり、敗北した時にパリ市民が蜂起し自治政府を作った「パリ・コミューン」のときに作られ謳われたパリの民衆の結束を象徴する唄だ。

ヴィクトル・ユゴーを読み上げた二人の若者の一人は白人の若いフランス女性で、もう一人は黒人の青年だった。ヴィクトル・ユゴーはフランスが生んだ最大の詩人で、小説「レ・ミゼラブル」の作者だ。国会議員に選出されたがナポレオン三世の独裁に反対、英仏海峡にあるガンジー島に数年間亡命生活をした。その時に書かれた文章だと思う。

「私が帰るとするならばふたつのことがなければならない。ひとつは共和国。ひとつは危機 danger だ。パリを救うことはフランスを救うだけでなく、世界を救うことだ。パリは文明の街であり、革命の街だからだ。パリはユマニテの中心なのだ」

このユマニテという言葉。英語のヒューマニテイー(人間性)という言葉に近いが、それだけでは表わせきれないものがある。危機に際して団結してある価値、人間としての価値を守るために行動する。そういったニュアンスが含まれていると思う。

ジハデイストのテロをパリ市民、フランス人は「文明に対する攻撃」と捉えている。


昨年1月11日の日曜には、この広場で数十万人のパリ市民が「私はシャルリー(Je suis Charli)と書いたプラカードを掲げ、自主的に集まり「表現の自由」の象徴である鉛筆の模型を掲げて「シャルリー」を連呼した。

サチール(風刺漫画)を好むと好まぬとにかかわらず、市民はこの広場に「表現の自由」、「文明」「ユマニテ」を野蛮な暴力から守らねばという思いに駆られ自発的に集まったのだった。

また世界中から国の首長などが集まり、この広場からバスチーユ広場までの大通りを行進した。

しかし、ジハジスト(イスラム過激派)の脅迫に対し、警察と軍による警備をどこまで厳重にするかという課題と、個人の自由を侵害しないという矛盾する課題への明確な政治的判断が下せないうちに、11月13日、バタクラン劇場での130人の死者、200人近い負傷者をだすというフランスの歴史はじまって以来の大規模なテロが現実化してしまった。

シャルリー・エブド誌の編集長だったシャルブは2009年に編集長となったが、マホメットの風刺画を載せたため、ジハジストから殺害すると脅迫を受けていた。そして2015年の1月7日、編集会議の最中を襲ったクワシ兄弟は真っ先にシャルブを殺害し、編集室に居た漫画家と記者を次々と殺害していった。シャルブの護衛に当たっていた警察官フランク・ブランソラロも最初に殺害された。ブランソラロ未亡人は、当初は3人であたっていた警備を2人に減らすなど、テロリストの脅迫を軽視し警備を十分行わなかったと内務省を相手取って訴訟を起こした。

シャルリー・エブドは事件の起こる数年前からたびたび脅迫を受け、編集事務所も2回変わった。シャルブには個人的に身体警備の専門の警官が護衛にあたっていた(フランク・ブランソラロ)。訴えを受け、内務省は次のように弁明した。

襲撃に遭った事務所の入り口には当初警察の車が24時間駐車した状態で警備にあたっていた。護衛の警官も常時3人配置されていた。がある時期、(予算削減が理由の一つにあったと思うが)警官は2人に減らされ、警護の車も固定した場所ではなく、巡回警護に変えた、と。

昨年の11月13日のテロ以後、大統領は即座に「危機」宣言をし、厳戒態勢をしいた。今もなお続いている。1万5千人の兵士が毎日24時間体制でパリを警護している。経費が一日100万ユーロ(約1億4千万円)かかる。2月末までこの態勢が続けられ、大統領は「危機」期間を延長したい意向だ。

「危機」態勢中は、判事の「捜査令状」なしに家宅捜索を行える。夜間の家宅捜査が可能となる。

また警官による銃の使用は、正当防衛に限らず、犯人が明らかに銃を使用する危険があると認められる場合、もちろん殺人を行った後なら銃が向けられていない場合も射撃して良いことになった。

実際、シャルリー・エブド襲撃の直後、3人の警官が駆け付け、クワシ兄弟が建物から出て来たのだが、警官は銃を発砲した。警官の一人は女性だったが建物の角に隠れ、機を捉えて身を乗り出して射撃したのだが、弾は当たらなかった。もう一人の男性警官も射撃したが当たらなかった。「正当防衛時だけの至近距離での射撃訓練しか受けていないので、遠い標的を狙う正確な射撃が出来ない」と証言した。

1月7日の襲撃当日はテレビでほぼ生中継が放映された。クワシ兄弟が街頭に出て銃を乱射する光景。駆け付けた警官を射殺し歩道に倒れた横を通りがけに頭に弾丸を打ち込んで止めを刺す場面。黒の小型乗用車に乗り込む前に「シャルリー・エブドをやっつけたぞ! 復讐をしてやったぞ!アッラーは偉大なり!」とカラシニコフを頭上に掲げて叫ぶ姿。どこから、どうやってこれらの場面を撮影したのか? その疑問が解かれた。

シャルリー・エブドが入っているビルの同じ階に英国の新聞社が入っていて、テロリストの侵入を察知した英国人記者たちは急ぎ屋上に避難したのだった。屋根の煙突や壁の陰に隠れて身を守りながら、こうした場面を撮影した。

編集会議に居たジャーナリストの中にはとっさに身を隠して助かった人もいる。モロッコ出身の女性ジャーナリスト、ジネブもテロリストと言葉さえ交わし、女だという理由で撃たれなかった。「お前は見逃してやる。見逃してやるから、コーランを読め」とクワシが言ったとか。ジネブには今も身辺警護の警官がどこへ行くにもついて回る。ノルウエーのジャーナリストの集まりに招かれ講演した時も、ホテルの部屋までノルウエーの警官が数人警護について行った。

「あたしは、講演をやめないわ。だって、あたしの仲間を黙らせるために殺したんだから。黙ったりしたら負けよ。仲間の意志を継ぐためにも講演を続けるわ」と彼女は言う。

生き残った人には、死んだ人に対して申し訳ないという一種の罪悪感が残るという。なぜ、彼、彼女が殺され、私だけが助かったのか?

テロの脅威はパリだけではないのだ。

警察と軍の関係者は2016年には、もっと大規模な、大都市をまたいだ複数個所での同時多発テロが起こる危険がある、と予測している。



リンクは、ジョニー・ホリデイ―が殺害された友達に捧げ歌う「一月の日曜日」(Un dimanche de Janvier)。






それと2015年12月7日、バタクラン劇場テロの直後に、ジュリエット・グレコが唄った「サクランボの実るとき」 Le temps des serise