デヴィッド・ボウイーが亡くなった。つい2・3日前にラジオで新しいアルバムが出たと聞いたばかりだったのでまったくの驚きだった。ガンと闘っていたという。
昨日はテレビ番組で、1996年1月8日に亡くなったミッテラン大統領についてのドキュメンタリーが放映された。
ミッテラン大統領は7年間の任期を二期、14年間の長きに渡って大統領を務めた。二期目の任期が切れる直前に前立腺癌と報道された。が実際は、1981年にジスカールデスタンの後を継いで左翼連合の大統領として選出された直後に、癌が見つかっていた。主治医は3か月から2年の命だと宣告した。
癌という事実は隠されていたが、マスコミは病気を嗅ぎつけ、インタヴューで健康は大丈夫かと質問をぶつけた。敗北した保守派は病気の人間を共和国大統領に推すなど無責任だ、と非難した。
この時代、まだ癌は不治の病と見做されていた。癌がみつかれば、ほぼ確実に死が襲うことが避けられないとだれもが考えた。その癌を隠し続け、一期だけでなく二期までも大統領の重職を務めあげた。その病魔と15年間も闘った日々の勇気には想像を超えるものがある。
寿命は3か月から長くて2年と診断を下した主治医はその後も、毎日昼と夜の区別なく、どこへ行くにも救急医療具を入れた鞄を持って大統領についてまわり、講演や会議の合間に治療を施していた。ある時期、若い医者が、ミッテランに現代医療よりも昔から伝わるオメオパテイ(今日流行りのサプリメントのようなものか?)を奨め試したところ痛みが弱まり、体調にも良いと大統領自身が評価し、7年近くも秘匿され自己を犠牲にして大統領の命を陰で支えていた主治医はお払い箱にされた。
癌は一期目の終わりに近づくころには奇跡的に快癒したようだったという。
もともとミッテランの家系は保守のカトリックで、父はカトリックのなかでも厳格なジャンセニストだった。
ジャンセニストは17世紀古典劇作家のラシーヌや、パンセを書いたパスカルが入っていた一種のカトリック原理派のような宗派で、ルイ14世に睨まれて禁止された時期がある。パスカルは天才数学者だが、神の存在を証明するために「パンセ」を書き始め完成しないままにあの世に行った。
ミッテランの母はむしろ無神論者で、フリーメイソンに共感していたという。労働者や貧しい人への思いやりは母親から引き継いだものだという。
ミッテランは合理主義者ではなく、自然に共感を抱く、ミステイックの性向を最後まで持っていた。毎年、故郷モルヴァンの丘に登り眼下に広がる田園風景に心を慰めるのを儀式のように死ぬ前年まで続けた。
1995年に任期が切れ、大統領の椅子をジャック・シラクに譲る時の退任の挨拶は感動的で、「私は、よそ(あの世)へ行ってもあなた方の未来を見つめ続ける。私のエスプリ(精神)はあなた方といつまでも一緒にいる」といったスピリチュアルな言葉で締めくくった。
フランスの大統領はそれぞれ記念を残す。ジスカールはオルセー美術館。シラクはブランリ河岸の民族学博物館。そしてミッテランは、デファンスのアルシュと呼ばれる大凱旋門。大ルーブル・プロジェクトの一環としてルーブル美術館の中庭にガラスのピラミッドを作った。3つ目はバスチーユ・オペラで、当初のミッテランの希望では現在の3倍くらい大きな計画だったが、予算を使いつくしてしまい、現在の規模に縮小された。国庫を空にしてしまったのだ。
1981年、当選直後にピエール・モロワを首相に任命し次々と社会改革を進めたが、世界的な金融危機の中で、フランスは通貨の深刻な危機に直面し、一国だけの社会主義は成り立たない、と認めざるを得なかった。モロワ内閣には4人の共産党閣僚が入ったのだったが、そのまま改革を推し進め、フランスを共産国にして世界から孤立する道は現実的ではない、とついに社会民主主義の道を選んだ。4人の共産党閣僚は内閣を去った。
週40時間労働を39時間に(現在は35時間)、定年を60歳にするなど労働者に有利な法律をモロワ内閣は成立させた。
任期中に社会党が総選挙で大敗する危機を二回迎えており、二回目の大敗を苦にして、首相を務めたピエール・ベレゴロワが自殺した。独学で首相にまでなったベレゴロワに社会党のエリートたちは冷たくあたったとのこと。住宅購入の財務処理に疑惑を投げかけられたことが、このまじめすぎる正直で気の小さなユダヤ人首相を死に追いやったと言われている。
ミッテランは国内の不人気をEUの実現に向かせることで危機を乗り切った。EU実現のためにドイツのヘルムート・コール首相の選挙戦を援助した。石油会社エルフ・アキテンヌを使い旧東独の老朽製油所を購入させ、経理の操作をして裏金を生み出し、コールに政治献金した。この事件は、ノルウエー出身の女性の予審判事によってエルフ社長の公金横領罪が確定し、フランス第一の石油会社エルフはトタールにとって代わられ影を潜めてしまった。ミッテランの関与は公には否定されているが、本も数冊出版され知る人は知っているところだ。
ミッテランの嘘は、自身のガンという大病を隠し続けたことだけでなく、配偶者のダニエルとは別の女性との間に娘が出来ていたこと。それを秘密にし数人の親しい友人以外には任期満了の直前まで隠し続けた。1974年にジスカールデスタンの対抗馬として出馬した時に、この事実が公になってしまっては選挙戦に不利なので、ダニエル婦人を説得し、お互い、精神的な結婚関係を維持したまま、肉体的には自由な結婚生活にしようと納得させた。
もうひとつの嘘は、大統領府での盗聴。社会党の若い政治家が、自分の欲しい地位をミッテランが与えなかったので、隠している娘マザリンを暴露するぞ、と脅迫したので、大統領府で不倫スキャンダルが広まるのを塞ぐために盗聴を開始した。盗聴はその後広範囲で行われたので、またもやインタヴューで追及されたが、大統領はにべもなく否定した。
ムルロワ環礁での核実験に反対行動を準備してオークランド港に停泊中だったグリーンピースの船、レインボウ・ワリアがフランスの諜報員が仕掛けた爆弾で沈没した。その際、カメラを取りに帰った写真家が死亡した。ミッテランは当然知っていた筈だが、知らなかった、とシラを切った。
大きな善のためなら小さな悪は許されるのだろうか? ミッテランとヘルムート・コール首相はお互いカトリックで気持ちが良く通じ合ったらしい。エリザベス女王はフランスの大統領の中ではミッテランを一番評価していたという。ミッテランの教養を評価したのだろう。そのエリザベス女王は2015年があと数日で終わる年の瀬に、テレビでメッセージを世界中の人に送った。「この世には光と闇が闘い、闇は光に勝たない」とヨハネによる福音書からと思われる言葉を投げかけた。もちろん、世界各地で毎日のように起こる野蛮なテロに対して光である文明がかならず勝つと呼びかけたのだ。エリートの政治家同士が抱いた理想、EUのシェンゲン協定が、テロの恐怖から逃れヨーロッパに流れ着いた百万人に近い難民によって今日危機に瀕している。