岡野渉とは私の小説中の名で、過去の事象は客観的に振り返り得るので三人称を使う。昔のことを主観的な独白を並べるだけでは読者には解らないだろうとの配慮からでもある。
船に乗った当時は知らないでいたが、今調べるといろいろなことが分る。見つけた記述が貴重に思われたので、小説の文体とことなるが、敢て歴史的記述を交える。
渉が乗った船は、横浜の大桟橋を出航し、東京湾を出て本州の海岸にそって北上し津軽海峡を横断して日本海に入り、ソ連のナホトカという港に着く。この航路は現在なくなっている。
隣接のウラジオストックの方が港としても街としても大きいが、ウラジオはソヴィエト太平洋艦隊の軍港都市として外国人の立ち入りが禁止されていたため、ナホトカが極東の貿易拠点として使われ発展した。
1961年の日ソ共同宣言による国交回復を機に、横浜港とナホトカを結ぶ旅客船の定期航路が再開した。就航していた客船はバイカル号、ハバロフスク号、トルクメニア号の3隻で、極東海運(FESCO)が運営していた。どれも5000トンに満たない中型の船だった。横浜とナホトカを結ぶこの航路は通称「ナホトカ航路」と呼ばれた。
40年前の当時、日本からヨーロッパへ行くには、飛行機なら南回りでローマに入るルートがあったが料金が高く、ビジネスで行く人か、金持ちに限られ、庶民の若者には高嶺の花だった。
もうひとつのルートがシベリア経由で、これは庶民向きだった。シベリア鉄道に1週間乗って退屈しない変わり者には有難いコースだった。渉は、短期間だが会社勤めも経験し、時間の大切さを学んだのでさすが1週間も同じ景色ばかりが続くシベリアを汽車で横断する勇気は持たなかった。
ナホトカからハバロフスクまでは列車、ハバロフスクからモスクワまではジェットを選んだ。ハバロフスク→モスクワをジェットに乗っても、南回りの飛行機で行くより安かった。11万円だったと思う。料金にはモスクワとレニングラードのホテル宿泊代と市内観光も含まれていた。レニングラードでだけ、半日の自由時間があったが、それ以外は観光客に完全な自由は無く、インツーリストというソ連国営の旅行代理店の指定するホテルに入り、外出時間は制限された。ただ、どんな小さなグループにも日本語を話せるガイドさんがついたのは立派だった。
「ナホトカ航路」は所要時間52時間、2泊3日の旅で、横浜を出て3日目の夕方ナホトカ港に着く。この航路を利用したのが、もっぱら、金はないけど精神的に余裕があり旅を楽しむ若者が多かったのもうなずける。このルートで行けと渉に勧めた友人の畑もその一人だった。自分の脚で歩いたルートを手書きの地図を書いて渉に教えたのだった。
二日目の午後、食堂へ行くと、船員さんが歌ったり民族衣装を着て踊ったりして、ロシア民謡の夕べを楽しませてくれた。10年くらい前の新宿にも「ともしび」とか「歌声喫茶」があり、「黒い瞳」だの「カチューシャ」だのといったロシア民謡が流行った。それは日本化されたロシア民謡だったし、日本人の感傷性に訴える歌だった。本もののロシア人が謳う民謡はずっと力強い響きがあり、悲しみの表現にも情念が長く尾を引く執念深さというか粘り強さを感じた。
ガラスのコップを金具の取っ手がついた受け台に入れたものに薄い茶を注いでくれる。サモワールという、ロシアの小説を読むと良く出て来る湯沸しがテーブルの真ん中に置いてある。ああ、サモワールってこれか! 渉は感慨を籠めて眺める。ボルシチが出た。ピロシキも食べた。
船は陸を離れ、仙台の沖辺りを航行中か? 外洋らしく大きな波のうねりが感じられる。
揺れがいっそう激しくなり、周りの船客が通路の支柱に掴まって立ちどまったり、屈みこんだりしながら紙袋の中へ嘔吐している。渉は車酔いなどしたことがなかったが、こんどの船の揺れにはなにやら眩暈がするようで、これが船酔いなのか、と吐き気が胃の腑に広がるのをどうすれば防げるか、必死にむかつく感覚を抑え込もうとしていた。立っていると視界が動いてよけい眩暈がする。ベッドに横になり眼を瞑っているのがいちばん楽なようだ。船ごとずーっと波の底へ滑り落ちてゆくのが感じられ、底まで落ちるとこんどはぐいーっと波の山を上ってゆく。その繰り返しが次第に苦痛になってきて、吐き気がとうとう胃の腑にまで達してしまった。このへんでいちど嘔吐して身軽になりたいとトイレへ走って胃の中の物を吐瀉した。
二日目の夜、船は津軽海峡を通過した。
日本海へ入ったと見え船の揺れは止んだ。朝から一日静かな航海が続いた。
夕方、陸が見え、船はナホトカ港に入った。
港は静かで一面灰色の冷たい水の中にある。青みがかった灰色の小型の駆逐艦だろうか掃海艇というのか大き目のボートのような船が係留してある。
港からハバロフスクまで汽車に乗る。夜行の寝台車だ。そこで初めて同じグループのメンバーと顔を合わせた。全部で7人。小さなグループだ。渉が一番の年長者でみんな20歳になったばかりか20代前半の若者である。最年長という理由で渉はグループの長を務めるよう旅行会社から依頼されていた。ほんの僅かの手当てが付くのだった。それをメンバーの一人が探り当て、汽車の中でみんなに暴露し、おんなじ旅をするのに不公平だ、と不平を鳴らした。リーダーの任務は、目的地のレニングラードへ無事に着き、チームが解散したら、旅行代理店宛てにその旨封書で知らせる。それだけだった。
白一色の世界。地平線まで続くかと思われるような広場は白銀の雪に覆われている。その中を、黒い厚手の生地の温かそうな外套に身を包み、やはり黒の丈夫そうな革鞄を提げた男女が、ほぼ全員同じ方向を指して歩いて行く。ハバロフスクの朝の通勤情景だ。彼等はほぼ全員が同じ黒の外套を着て、黒い鞄を提げている。色とりどりの個性あふれる服装を競う東京から来た渉の目には、一種異様な光景だった。
これがソヴィエトの社会なのか! 初めて眼にする社会主義社会の庶民の通勤姿を渉は興奮をもって眺めた。
「Gパンを売ってくれ、とかドルに交換してくれって必ず声をかけてくるぞ」
地図を描きながら、畑は経験者のコメントを忘れなかった。
やっぱり来た。「ドルに交換してくれないか?」肌が白く眼が蒼い青年が英語で問いかけて来た。公式レートより数倍高く換えてくれる。でも使い道がない。モスクワに着いたら1時間ほどの自由時間にデパートへ行くつもりだが、何を買ったらいい?
結局はチューイングガムを2枚済まなさそうに青年に渡して闇の両替から逃れた。
初めて乗る飛行機。それもジェット機だ。初めて乗るのがイリューシンとはね。
「アエロフロートのパイロットってみんな空軍あがりだから操縦はうまいんだ」
畑も言い、グループの仲間も同じことを言っていた。荷物が重量制限を遥かにオーバーしても苦情も言わず預かってくれる。メンバーの一人が折り畳み自転車の大きな円形の荷物を運び込んだ。
モスクワの上空から街並みが見下ろせた。初めて眼にする西洋の石造りの家の屋並みだ。いよいよヨーロッパへ入るんだ、と思うと渉の胸は高まった。
(つづく)
