渉にとっては外国は思春期のころから思いを馳せた夢の世界だった。いま、船はゆっくりと岸壁を離れ、空想の世界へ入ってゆく。夢が現実になってゆく。
タラップを昇ったときのことは覚えていない。船に上がると途端にプンとペンキの臭いがした。船倉に下り、荷物を置きすぐに甲板へ出た。船腹からせり上がった鉄の壁に大勢の乗客が凭れかかり身を乗り出している。僅かな隙間をみつけ、渉は岸壁を見下ろした。見送りに来てくれた家族、母と兄夫婦と、それに北欧へ行くコースを教えてくれた畑が家族と少し離れたコンクリートの小屋の上に腰を掛けこちらを見上げている。
数日前、北欧経由でパリへ行くという渉の旅程を聞いて、母親が、かつて住んでいた街の商店街へわざわざ渉を連れて行き、シーズンが終わりかけて冬物が残り少ない洋服店で、キルテイングのハーフコートを買ってくれた。
ポケットには5色のテープが入っている。取り出して手に握りしめ、畑と家族に向かって投げようと先端の糊付けを剥がしていると、畑がジェスチャーを送って来た。暑いからコートを脱げと奨めているのだ。
コートを脱ぎ、船腹に掛け、テープを畑と家族に向かって思い切り投げた。
ドラが鳴り、蛍の光が流れて、船は岸壁との間の海水に渦を巻き起こしながら、ゆっくりと埠頭を離れた。
船は東京湾を出て、陸地を水平線に見ながら、沖を走るようになると、流れ去る水面を見つめている渉の胸に、昨日までの会社の同僚たちとのやりとりが浮かんでくるのだった。
「反対なんですか!」
三角まなこで睨むように渉を見据え、黙ったままは許さないと怒気を含んだ声をぶつけてきた武山。
細長い顔に度の強い眼鏡の土井が武山になにかひそひそ声で話しかけている。どうやら冬のボーナスをアルバイトの澤田という女の子が貰えないのが問題のようだ。澤田は1年間の契約で貿易部の輸出課にアルバイトに来た。なんでもドイツ人の青年と同棲していて、妊娠したらしく先週はずっと休んでいた。やっと出てきたら土井にボーナスが出なくて生活費に困ってると話したらしい。土井は輸出課だし、一緒に仕事をしながら教えたり管理しなければならない立場でもあるので同情もからんでなんとかしてやりたいと武山に相談を持ち掛けたらしい。武山は渉と同じ輸入課でずっと先輩なので自分の担当を選んでそれしかやらない特権を課長から勝ち取った女性社員だ。二人の間で話がまとまったらしく、武山が渉に顔を向けた。彼女が言うには、みんなで少しづつお小遣いを出し合って澤田にカンパしよう、高田さんも出してください、と迫るのだった。
渉は翌年春にはヨーロッパは旅立とうと決めていた。親の家から通勤してるので生活費は丸々親に出して貰い、貯金してやっと旅費が溜まった。20代のうちに外国を見たいと思っていたのに、寄り道や義理があって遅れた。来年は20代の最後の年だ。なにがあっても出かける覚悟を決めてある。小遣いは一円でも貴重なのだ。外国旅行で頼れるものはお金しかない。一円でも命取りになる場合だってあるじゃないか。そんな簡単に同情などできるもんか。澤田という女の子はぼくより4・5歳は年下のようだが、若い身で同棲だなんて生意気じゃないか。しかもドイツ人が相手だ。僕みたいに節約して切り詰めて生活したらどうだ。贅沢して生活に困るってやつらの面倒なんかみてられるか。困るのは自業自得で、おれには関係ない話だ。
そう思って黙っていると、武山が怒りに浮腫(むく)んだような顔をして両眼の瞼を膨らませ居丈高な声で詰め寄って来た。
「反対なんですか!」
すぐに小銭をポケットから出さない俺に向かって怒りを含んだ声をぶつけやがる。
人はそれぞれに事情があるんだから、ほっといてくれないか。ひとさまの事情のために自己犠牲を強いられるのはまっぴら御免だ。大学でもそうだったじゃないか。僕たちの授業料が上がるわけでもないのに反対闘争に加われ、と、産学共同路線が悪い、日本の教育行政が間違ってる、日本が置かれてる情勢を考えて見ろ、ヴェトナムでは毎日幼い子供や女までが空爆で殺されている。日本を、世界を変えなければならない。そんな世界情勢の中へひっぱり出されたって、まだ一度も世界を見たことがない渉には観念の世界を彷徨うに似ていた。死ぬ前に一度は外国へ行って、この眼で外国を見てみたい。そうして自分の眼で見た外国の姿を「絵」に表したい。それが思春期から渉が秘かに心に決めたことだった。旅費を溜めるのに画材屋に入ったのもそのためだった。
会社がハワイに支店を出すという噂が伝わった。
渉は、おれたちをこんなひどい条件で働かせて得た利益でハワイに支店を出すなんて許されない。そんな金があるなら、おれたちの働く環境を少しでも良くしてくれたらどうなんだ、と仲間と語らいあった。
石油危機が伝えられていた。日本は石油が採れないのに高度経済成長をし続けるために石油を輸入しなければならない。渉の外国へ出ようとの思いには、外貨を少しでも稼がねばならないという素朴なものが潜んでいた。
あの時だってほんとうに死ぬかと思ったぐらいだ。機動隊とぶつかり合った夜の光景が甦って来る。こんなことで一生を棒に振りたくはない。世の為、人の為、社会正義の為だといって倫理的に人の行動を強制するのはもういい加減、よしにしてくれないか。ひとにはそれぞれ心の奥深くに秘められた本来の自己というものがある。個々の人生はそれぞれ本来的な自己を実現するためにある。6か月の間バリケードを守り、毎日を犠牲にして行動したにもかかわらず、敗北した。何も変わらなかったじゃないか。世の中を変えるなんて、口で言うほど生易しいことじゃない。変わったのは身を犠牲にして動いた自分の方だった。
まったく反対ってわけじゃないけどね。ここにいる4・5人だけで小銭を出し合ったところでなんの解決にもならないって思うだけ。おんなじやるなら、もっと効果的な、頭を使ってやったほうがいいと思うけどね。
「その気があるんなら、ぼくにも考えがある。ほんとに、やる気があるのかよ」
そこまで言ってしまった。腹の底から突き上げて湧いてでた感情は、おれにだって、その気になりさえすれば、君らよりもっとましなことをやれるんだ。ついてこいよ。というものだった。
渉は貿易部に来る前、半年間、車の運転と重い荷物の積み下ろしをやらされた。配送って現場の肉体労働をさせられたんだ。その点が君らはじめから貿易部へ来て事務の頭脳労働をしてる人間とは違う。おれの利点は、関西は除いて、東京と横浜の全部の店の仲間を知ってる点だ。店長の顔と名前はぜんぶ諳んじてるからな。おなじやるなら、こんなみみっちいやりかたじゃなく、店長に手紙を書いて、現場で働く全員に呼びかけようじゃないか。やるんだな。君らさえ賛成なら、すぐに手紙を書いて明日の朝いちばんの配送に乗っける。配送のSには、店長には全員手渡しするよう頼んで置く。いいな。やるんだな。
「残るべきですよ。ここまでやったんだから、いま抜けるって手はないですよ。最初に言いだして作ったのはあんたなんだから、軌道に乗るまでやるべきですよ」
そう言って丸山は、その分厚い胸を渉にぶつけるように迫った。
「帰ってきたら必ず君たちと一緒に組合をやるから。これは僕の一生に係わる旅なんだ。ずっと前から決めてあったことなんだ。旅に出られなければ死んでも死にきれない」
(つづく)
