伝統と革新 その② | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

有吉佐和子の「人形浄瑠璃」続きになるが、60名の座員のうち、3分の2の40名がレギュラー出演者、3分の1が組合のお蔭で出演できなくても、僅かばかりでも給料を貰える「余った者」という行き詰まり状態を、会社としては首切りをしたいところだったが、世間体というか、悪い評判を立てたくないとの思いから傍観していたのだったが、結局は座員自体の「民主的」方法によって決着を見たのだった。それを有吉はこのように書いている。

「民主的という言葉が、敗戦前の天皇絶対と同じように叫ばれ、この言葉の下でなら、どんな横暴もカモフラージュされているとき、文楽の組合問題は遂に『民主的』な方法によって解決された。それは全員の記名投票である。結果は三分の二が組合解散を支持し、三分の一が組合を支持して惨敗していた。」(第二章198p)

この小説全体が人形遣いの吉田玉次郎の眼を通して書かれているのだが、玉次郎は組合を支持した「あまり者」の側に付いた。そのため、新聞などでは「芸能界の無風地帯であった文楽も、遂に割れる」と大きく報道し、玉次郎は時の人としてスポットライトを浴びて立つことになった。様々な座談会に引っ張り出され、玉次郎は芸能界の因習に反抗した気骨ある男、この世界には稀有なる近代人として迎えられた。


源太

玉次郎には卯三郎という名人の師匠がいて、世間では玉次郎がゆくゆくは卯三郎を継ぐ有能な人形遣いと期待されていたのであるが、そういう玉次郎が
「無能と決めつけられた十数名を抱えて立つ結果となったのは、その連中が路頭に迷うのを見ていられなかったからであり、非情に斬ろうとする輩の傲慢が許せなかったからである。世間は、そんな玉次郎に喝采を送ったのだが、実は玉次郎の心中には、最大の屈託があった。それは師匠の卯三郎と派を割ってしまったということなのだった。」

玉次郎の心の底には年老いて耳も聞こえなくなった名人師匠卯三郎の姿が常に重く大事な比重を占めているのだった。

そのことが、この小説を単なる、伝統の中で革新を目指すものの勝利といったような図式的で単純な小説から抜け出して真に人間的なものにしている。

「全繊」挙げての支援とマスコミからも好評を得て、「鼎会」は予想もしなかった成功を収める。そうしたところへ放送局の企画部員が現れ、「芸術祭」に参加しないかと誘う。しかも、新作文楽で。進歩的な劇作家が書く台本に三味線の万八が曲をつける。それも旅興業の中で睡眠時間を縮めて作曲するのだった。

移動中の汽車の中で万八は台本を読み、公演中の楽屋で譜を作った。

柳大夫と重大夫が、万八の三味線にのって稽古を始めた途端、鼎会は台本の内容に吃驚仰天した。詩句は口語文だった。それも韻文ではなく散文で時代は現代なのだった。

玉次郎は次第に世間が「前衛」扱いする鼎会をひっぱり、入門したばかりで、昔なら、三年は舞台の小幕の開けたてや小道具の出し入れに追い使われ、それから足遣い三年、人形の左手だけ持つのが三年、その修業過程を終えてもツメの腰元か百姓のような端役しか持てなかった昔の稽古の仕方を破って、入門したての若者にすぐに足を持たせた。そして知り得る限りの技能を若手に教えるのだった。

日本人の技術の伝搬の仕方、現代の大企業でも未だにこの傾向は残っているのだが、OJT(On the Job Training)、仕事をやりながら技術を習得するのが通常で、それも、先輩のやることを良く観察して「盗め」と言われる。それが当然とされている。先輩は後輩に「背中を見せる」、つまりお手本となるような技術と行いを黙って見せる。

玉次郎は自分が若かった頃を回想してこう思う。

「何かをこちらから質問すると、兄弟子たちは嫌がったものだったし、若かった玉次郎にしつこく訊かれて露骨に顔を顰めた相手もいた。口の端を指さして「お前、ひとのままつぶ盗る気イか」と言って横を向いた老人を、玉三郎は絶望的に眺めた記憶がある。文楽一般に一人一芸を築くには誰の世話にもならぬという依怙地があった。教えると顎が干上がるといわんばかりに、自分の飯粒を自分だけのものに抱え込んでいた人たち――。」

日本もヨーロッパも手工芸の世界は、つい最近まで、20世紀の初めまでは、多かれ少なかれこうだったのだろう。メートル(マイスター)と呼ばれる親方の家に住み込み、家事雑用をしながら技術を習得する。親方の方から、だれにも分かりやすい言葉で説明する、というようなことは絶えてなかった。

20世紀に入り、そうした技術移転の方法が革命的に変わったのは、アメリカのお蔭だと思う。正確にはヘンリー・フォードがT型フォードの生産を開始した1910年初頭に期を同じくして、フレデリック・テイラーが肉体労働(港湾労働者が石炭をジュートの袋に詰めて運ぶなどの単純作業)の世界に、科学的管理法を導入してからだ、と思う。科学的管理法とは、言い方を変えれば、数学的分析的に考え、人間の肉体労働といったアナログの世界に分析的、数値的すなわちデジタルな思考法を適用してからのことだと、筆者は思う。

むろん単純肉体労働と、ずっと高度な感性と審美能力が介入する芸術の世界とを単純に同一視することはできないけれど、労働世界の「民主化」ということが、アメリカに端を発し、組合主義の伝統を持つヨーロッパの世紀初頭の「人民戦線」などの動きと一体化して働く世界の、ひいては技術の伝達と教育に「教えられる側の立場を重視した」方法が採られるようになった。最近は、この傾向が行き過ぎて、筆者のフランスでの経験では、教えられる側が、尊大になり過ぎる傾向があるが。とまれ、企業内研修は現代企業になくてはならない活動となった。

この小説の書き出しが、組合を存続させるべきか否かの討議を行っている場面で始まる、と前回書いたが、より正確には、玉次郎が会場に向かう雨の路上を奥さんに支えられた老いた師匠、卯三郎が、あやうくタクシーに撥ねられそうになる場面で始まる。そして小説の最後は、新しく建てられた文楽座を振り返りながら、雨の濡れた道頓堀を眺めながら玉次郎が、出だしの危うくタクシーに撥ねられそうになった師匠の姿を思い出すところで終わる。

玉次郎たち鼎会も成功し、文楽会との合同公演も実現し、玉次郎の心の奥底に長い闘いの間わだかまっていた卯三郎師匠との再会が実現する。

再会の席で、師匠の膝に手を伸べ頭を畳に擦り付けた玉次郎はあたりかまわず号泣するのだった。このことは、作家の有吉佐和子が、なにも技術の伝達に「民主的」であれ、などと言ってるのではないことを示している。技術と芸の伝承には、師と弟子との人間的な繋がりがある、ということを示したかったのであろう。

 (おわり)

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