伝統と革新 その① | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

有吉佐和子の「人形浄瑠璃」を読んだ。ずっと昔、まだフランスに住み着く前だから、40年以上前に、同じ作家の「非色」という小説を読んだことがある。人種の問題を扱った小説だった。それ以外、この作家の作品を読んだことはなかったが、こんどふと手に取った筑摩の現代日本文学大系の一巻に、この小説があったので読んだ。そしてこの女流作家が「伝統と革新」というテーマに取り組んで作品を残したことを知ったのだった。

「人形浄瑠璃」は昭和33年12月の作とあるから、もう随分昔の作品である。今では「人形浄瑠璃」は世界的にファンが出来て、パリやニューヨークでも度々公演され、そのたびに感動したという外人の声を聞くほどになった。

この小説の時代は、文楽の興業が本場の大阪でも何か月も続けて4分か五分の入りしかなく、興業会社である文楽座は慢性的な赤字を抱えていた。

文楽座は60人の芸術家を抱えている。300年の伝統を持つ「文楽」。人形遣い、浄瑠璃を語る「大夫」(文楽では「大夫」と書く。歌舞伎の床(ゆか)で浄瑠璃を語る「太夫」には「太」とテンが付いているので文楽では蔑称して「チョボ」と呼ぶ)、太棹の三味線弾き。

戦後、文楽座にも組合が出来た。出演してもしなくても「サラリー」を貰えるという仕組みが出来た。社員の中には毎回興業に出演する者と、いつまでも出演できない者とが出来てしまう。いわば出演する者が、出演出来ないものを食わせてゆくという形態ができあがっている。

小説は。そんな仕組みに疑問を持ち、組合を解散すべきと主張する「レギュラー出演者」と、組合を存続すべきという、いわば才能が無いと見做され、出演できない落ちこぼれ組が、何のために作ったか? と議論する場面で始まる。

ついに、文楽座は、組合解散派の40人のレギュラー出演者が興業会社に協力してこれからもやってゆくとして作った「文楽会」と、組合を存続し興業会社からも独立した「鼎会」とに分裂してしまう。鼎会は浄瑠璃語りの大夫、人形遣い(玉次郎が代表)、三味線弾き(太棹の万八)の三者が一体となって文楽人形浄瑠璃を作ろうという意図を籠めて命名された。

興業会社から独立した鼎会はしかし、現実には、どのように観客を集め、どのように会を運営してゆくか、つまり20人の会員をどのように「食わせてゆくか」?の現実的問題と直面する。一方の文楽会は東京公演で大入り満員の予想外の成功を収めたという情報も入って来る。鼎会は地方巡業、早く云って「ドサまわり」してゆくしかないのか?

崖っぷちに立った鼎会に救世主が現れる。当時の、組合、日本の津々浦々に組織を持つ、「全繊」の労働組合から、文化活動の一環として鼎会の公演に観客を動員すると電報が届く。


かしら


もう一つの問題。文楽の命は人形の頭(かしら)。玉次郎は「笹屋の娘」と呼ばれる名品を持っている。この「笹屋の娘」では「河庄」の小春、「野崎村」のお光、「忠臣蔵」の戸浪、「十種香」の八重垣姫などの役どころに使える。だが相手役に使う「源太」がない。源太は若い二枚目系の男の頭である。頭の問題は、思いがけなく解決する。

和歌山から電報が届く。「メイヒンゲ ンタキイチコウメイバンザ イバ ンザ イ」

「名品の源太と鬼一(キイチ)と孔明があった万歳、万歳」。和歌山の旧家から倉に保存してあった祖父が収集した頭を提供したいと申し出があり、玉次郎が現物を見に行き、思いがけない名品を手にした感激を速報したのだった。

組合の労働者ばかりを集めた、つまり文楽など初めて観る観客ばかりの興業で、玉次郎はしかし、通の観客を前にした時よりも緊張を覚える。それは観客の「純粋」な眼というものだった。

「ここは真剣に「芸」を見せるべきだと彼は悟ったのだ。未熟な観客に、未熟な芸を見せてはならない。純粋な観客にこそ、本ものの、上等の、一級品を披露すべきではないか。そして反射的に、玉次郎は鼎会の人形遣いの実力を思い出した。

自惚れでなく、一級品を誇れる腕のあるのは鼎会では玉次郎一人だった。中略……玉次郎は自信が持てない。十年分を十日余の稽古で誤魔化そうとしている自分たちを、玉次郎は純粋な観客の前で恥じていたのだった。」(208p)

ところが、玉次郎は内心の忸怩たる恐れと恥を弾き返すような、次のようなことを眼にするのだ。

「驚愕であった。玉次郎は、卯之助の芸がここまで来ていようとは夢知らなかったのだ。稽古のとき、玉次郎は技術を伝えるに大童で、芸まではとてもこの短期間に叩きあげられることではないと考えていた。それを若い者に望むのは酷だと考え、その限りで教えるのに荒い声一つたてなかった。高望みして焦れては却って何も出来まいと思ったからである。(筑摩現代日本文学大系、有吉佐和子、形浄瑠璃208p)

「曾根崎心中」の舞台で、玉次郎は平静を取戻していた。よく見れば、卯之助にばかり愕くことではなかったのだ。彼の左を遣い、足を遣っている者たちの技倆も、決して六年と三年の修業過程を経た者たちに劣らなかったのだ。文句をつけるとしても、無いのは慣れというものだというだけだった。 (同、209p)

それにしても、三年の六年の十年のと、長い間信じられ、守り通されてきた文楽の修業の仕方は、では何だったのだろうと、玉次郎は考えぬわけにはいかなかった。開幕直後、彼が観客の前に忸じたことが、総て杞憂だったと解明した今、玉次郎は過去を疑わぬわけにはいかなかった。「芸」というとてつもないものという観念に眩惑されて、修業年限の途方もなく長い辛さに耐えぬいた自分たちは、ではいったい何をしていたことになるのだろうか……。(同、209p)


  (つづく)

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