明治の初年まで日本陸軍はフランスの技術を取り入れた。サンチという呼称が今も残っているのはそのためである。幕末維新の日本はフランスとイギリスという2大帝国の政治的間に立ち、フランスは徳川幕府を、イギリスは薩長を支持した。グラバーとやらひとりの政商がアメリカの中古の銃の輸入の仲介をしそのまた仲介役が坂本龍馬で薩長が当時の日本では最新鋭の武器を手に入れ優位に立った。
明治の日本がロシアの海軍を対馬海峡で全滅させたことが、第一次世界大戦に敗北し疲弊しきっていた帝政ロシアに革命を実現させた。ボルシェヴィキという過激派が政権を握り首魁のレーニンはロマノフ王朝を絶滅せんがため国王一家を皆殺しにしたという噂だ。彼奴が主導していた無政府主義なるものは、レーニンの率いる過激派が主張するような生産手段を国有化し労働者の独裁政権を打ち立てるといったものより少しは温和な共同組合主義といったものらしいが、それでも日本の伝統に反する御上をないがしろにするところに違いはない。
ここフランスは大革命で国王ルイ16世と王妃アントワネットをギロチンに掛け処刑してしまい共和制を樹立したが、ヨーロッパには共和政を採る国は少数派であり立憲君主制が主体なのだ。私は貴族政治こそ理想の政治形態と信じるものだが、民にはいろいろな考えを持つ者がいて、施政者たる人間は広く深い度量を持って、いわばならず者にも恩恵を与えねばならないものなのだ。国体に反する者は処刑するというやり方は、成り上がり者のすることで、真に国民の信望を得ている為政者にはその必要は無い。
観光案内の栞によるとこのカテドラルの左右の塔のうち、右側の塔は、カレームとかいって肉食を年一回絶つ期間の間に信者から募った募金で建てられたのだそうな。洋の東西を問わず断食があるのだな。肉を食うとはとりもなおさず動物を殺して食うのだから、人間が生き延びるために殺生を行っているあからさまな現実をせめて年一回一週間の間だけでも肉と魚を食うのを止めて供養してきたのだろう。私がいつも奇妙に思うのはキリスト教は最後の審判というのがあって、人間が一生の間に犯した悪行と善行を秤にかけて死後に天国に行くか地獄に落されるかが決められる。天国へ行きたいがために存命中は善行を積んでしっかり貯金しておこうという、なにか善ということも自分の利益に繋がるので行うのだてふ現金な計算に基づいて行われてるのか? すこしもスピリチュアルなものとか敬虔なところがないじゃないかてふ思いを拭えない。
しかしよくもまあこれだけの壮大かつ繊細な建築物を石で造ったものだと感心する。フランスでは「聖王ルイ」という王様の時代に大聖堂があちこちに建てられたという。聖王ルイは今も国民に慕われている王様らしい。何人もいるルイのうち唯一「聖人」に列せられた王様だ。姑の虐めや嫌がらせに耐えて相愛の夫婦関係を保ち、過剰なほど敬虔で自分が犯した罪を懺悔する時にはムチで自らの背中を血が流れるまで打ち据えたという。戦闘にも強く、異端やユダヤ人の弾圧などもやったカトリックの王様なのだ。十字軍になんどか先頭に立って遠征し、チュニジアのハマメットの地で病気に罹り没した。この時代からキリスト教の西欧と回教国のアラブとの戦闘が行われていた。
キリスト教の最後の審判は天秤で示される。一人の人間の一生の善行と悪行を秤に掛けて重い方へ行かされるのだ。この天秤は現在も裁判所の正面に掲げてある。すなわち容疑者の善悪を天秤に掛けて判決を下す裁判の象徴とされているのだ。私がつねづね不思議に思うのは、西洋では今も裁判の証言台に立たされる証人は必ず聖書に手を置いて「真実以外のなにものも答えません」と誓う。つまり神に真実を述べると誓うのだ。
「神は死んだ」と19世紀の哲人が宣言してから人間は神を素直に信じなくなった。西洋の神は天地創造の神で何事もお見通しなのだから、嘘を吐いたら見破られてしまう。だからこうして神に誓わせておけば偽証をする者も少ないのだろう。しかし東洋のわれわれ仏教や神道の伝統に生まれた者はもともと絶対的神の存在を信じてはいないのだから神に誓って嘘は申しませんということのどこまでが信用できるのか? 証言の信憑性は西洋のそれとはだいぶ違うのだ。もし絶対的な神が存在するのならば、私が行った証言は嘘だったのだし偽証罪に問われることになる。人の罪を被ったことは私が信じるようにそれによって何ものにも置き換え得ない価値を救ったことになるという私の自負そのものを打ち砕き、むしろ罪を被ることによってより重大な罪を覆い隠すことになるかもしれないからだ。そんなことを考えるので、よけい私の心はウツウツと霙交じりの冬空のように曇ったままだ。
(つづく)