ルーアン覚書 その③ | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

森鴎外の跡を継いで陸軍軍医総監となった藤田嗣章氏は私も何かの席で挨拶したことがあるが、末っ子が絵描きになりたくてパリに行ってるんだと漏らしていた。そのご子息は今から10年ほど前、パリのサロン・ドートンヌへ出展した6点のすべてが入選し、数年後にはサロンの審査員となり、パリの批評家から白人女性の白い肌を描くためにこの画家が発明した独自の艶のある絵の具が絶賛を浴び、今ではパリ社交界の寵児となってもてはやされているそうだ。


fujita


彼の絵は日本画で細い線を引く時に使う面相筆で黒い輪郭線を描き、刷毛で掃いたような淡い墨色の影を施してある。日本画の伝統を西洋画に活かした独特の画風を作りだして世界的な評価を得たのだ。東京美術学校の卒業制作に描いた自画像に藤田の息子は黒を使ったため黒田清輝は学生たちの前で悪い絵の代表として酷評したそうである。

黒田はエミール・コランてふフランスでの師匠に教えられたことを忠実に守って日本のアカデミスムの元締めとなったが、写実に必要な真の観察力も独創性もなく、日本の墨絵や浮世絵の伝統を洋画に活かすという独創をやってのけた藤田が世界的な評価を得たのは当然だろう。

ルーアンのカテドラルを描いたモネは他にも風景画をたくさん描いたので日本人に好まれるのだろう。モネもマネも印象派と呼ばれる画家は日本の浮世絵の愛好者でありコレクターだった。

最近ますます評価が高まっているオランダからパリに出て南仏のアルルでゴーギャンと喧嘩し自分の耳を切り取り精神病院に入り若くしてピストル自殺したゴーグとかいふ絵描きは北斎や広重の構図をそのまま借用さえしている。

絵描きが野外へ出て風景を描くようになったのはつい最近のことなのだ。
モネはこのルーアンのカテドラルの前に三脚を立て一日に移り変わる光と色を写生したのだろうが、日本の雪舟などは記憶に残る自然の風景を心で組み立てて画布に描いた。そこら辺が日本の絵と西洋の絵とに違いがある。特にフランスの画家は自分の眼で直接対象を良く視ることの必要性を強調したようで、波の絵やエトルタの崖の風景を描いたクールベはこの視ることを徹底したようだ。

クールベてふ絵描きはパリコミューンに際して委員となりヴァンドーム広場のナポレオンの像が乗った円柱を引き倒した。その咎で入牢した経験を持つ男だ。「所有とは窃盗である」の言葉を残したアナーキストの親「プールドン」の肖像画を描いたのもクールベだから、もともと世俗の良識に反抗する気質だったのだろう。フランスには、そういう無法を称賛する気風がある。日本の絵描きがあこがれてパリへと出て来る裏にはそうした自由への憧れが伴っていないとも限らない。奴もそうしたところに惹かれてフランスへ来たのに違いない。

しかし外国で支持されてる思想が、日本でそのまま通用すると考えるのはクロダという絵描きと同じ過ちを犯すことだ。それぞれの国にはそれぞれの違った風土、習慣、国民性というものがある。圧政が続き、税をむしり取られるだけの西欧の農民や町人が命と引き換えに反乱を起こすのも理由のないことではない。
日本の為政者はそこまで過酷ではなかった。なにより御上への尊敬は日本の津々浦々まで行き渡っている。

日露戦争で日本海軍を勝利に導いた天才的な参謀秋山真之の兄の好古(よしふる)は日本陸軍騎兵の父と呼ばれている。好古はフランスのサンシール士官学校で騎馬兵術を習得した。私も好古に倣ってサンシールへ行きたいと志望し、フランス語を習った。夢は叶えられず、戸山が原の陸軍士官学校の馬場で乗馬を習得するに終わったが、馬を乗りこなすに必要な規律、自己規制と秩序への意志はその後もずっと私の習性となって残った。私は、人との約束の時間を守らない者に我慢がならない。遅刻をする人間にはあからさまに10分の遅刻ですよと告げることにしている。

 (つづく)

ペタしてね 読者登録してね