絵を描くことの意味 その① | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

「ゴッホ展を見る」の記事に、ドクター熊楠ことtexas-no-kumagusu さんからコメントを頂いたのでお返しをと思ううち、絵についていろんな思いが沸き、コメント欄に書ききれないので、記事にして投稿しようと思います。

なお、以下の記事は、「画家の文化的位置」というドクターのコメントに直接お答えするものではなく、めのおが絵に関して考え知ってることの備忘録のようなものになると思います。


アンナ
               「アンナへの贈物」として最初に描いた表紙絵↑


クロマニヨン人が描いたといわれるフランスのラスコーやスペインのアルタミラの洞窟画。また近年(1994年)発見され、ラスコーの1万5千年より前の約3万2千年前と推定され、ネアンデルタール人が描いたとの説も出ているショーヴェの洞窟画。ショーヴェの年代についてはもっと新しいという説が出て論争中らしいが、いずれにせよ先史時代に描かれ現存する人類最古の絵画であることに違いはない。

野牛や鹿や馬や豹やライオンといった動物が驚くべき描写力で描かれている。木炭とオーカーなど黄色や赤のピグメントを含む土を獣脂、血、樹液で溶いて絵の具を作った。狩猟の成功を願う祭祀的な意味を籠めて、絵の才能を持ったシャーマンが描いたといわれる。そこには動物に憑依する人間の心的状態と、絵を描くという行為と狩猟本能とが結びつき、洞窟の奥に人が集まり祭祀を行える場所が選ばれて描かれているから、すでに絵画と宗教との関連性を見ることが出来る。

絵は発祥の当初から宗教と結びついていた。そして描く対象を真似て憑依に至る、ミメーテス=物真似、対象と同化しようという衝動と結びついていた。絵を描くという行為が人の存在の深いところに潜む根源的な欲望とも結びつき、線を引くこと、面を絵具で塗ることは人間の隠れた衝動となって意識の底に残った。

「絵」とは「線」を引くことと、「面」を「色」で塗るというふたつの行為で成り立っている。平面の芸術なのだが、ここでは広い意味で芸術でなくても「絵」と呼べるものを対象とする。この線と面と色彩については後で取り上げることにする。

時代は跳んでルネサンスから近代になると、絵画は宗教画として教会の壁面や天井を飾り、壁画として公共建築物の壁を飾って大衆の眼に触れる場所に描かれた。ミケランジェロのシステナの天井画、ダ・ヴィンチの最後の晩餐などのフレスコ画がその代表。

次に絶対王政の時代になると国王の肖像画と戦争画がたくさん描かれた。国家が歴史的事件を記録するために戦争の場面を画家に描かせた。ヴェルサイユ宮殿にはフランスの主な戦争の場面を描いた絵がたくさん並んでいる。また国王の婚姻など半ば神話化して一連の絵にした絵、代表的にアンリ4世と結婚した「マリー・ド・メデイシスの生涯」と題したルーベンスの24枚の連作がルーブルに飾ってある。

第二次世界大戦になると西洋では絵画よりも写真や映画が記録の主体となったと思うが、日本では藤田嗣治を会長に戦争画を描く画家の集まりが国家の要請で作られ、フジタはノモンハン事件(ハルハ河畔の戦闘1941年)、太平洋戦争(アッツ島玉砕1943年、サイパン島同胞節を全うす1945年)と大作を描いている。

王政が廃され大革命の後も、画家は社会的事件を描くのが主な仕事だった。ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」は1830年の7月革命をテーマに三色旗を掲げる女性を描いたあまりにも有名な絵。

もうひとつ、「絵」を語る時、あまり話題にされないけれど、重要と考えるのは「工学」で用いられる絵、つまり設計図。今読みかけの「ものづくり」の科学史(橋本毅彦著)はとても興味深い本で、ふつう機械や工業製品を作るに際し「設計図」を描くのがあたりまえのように今日では考えられているが、ヨーロッパで設計図が一般的に描かれるようになったのは19世紀になってからという。それまでは師匠と弟子との以心伝心でやってたのか? 設計とはコンセプトの段階、つまり技術者の心と頭の中で漠然としたイメージとして沸く段階から、寸法をいれた工事図面の段階まで、第三者に意匠を伝えるためのコミュニケーションの手段として大事なのだ。まだ形のない、この世に存在しない物を「絵」にして描いて他人に伝えることは「絵」が持つ貴重な役割と思う。ダ・ヴィンチは画家であるより前にエンジニアであり、武器や建築の概念図をたくさん残している。

ここまでは「絵」の社会的役割とでもいうような、公的な機能を挙げてみた。

写真が発明されてから、それまで王侯貴族の肖像画を描くことを主な収入源としていた画家は仕事がなくなった。レンブラントやホルベイン、ルーカス・クラナッハなどは幸福な時代に画家として活躍できた。

写真はまた「写実派」と呼ばれた絵の描き方を根底から覆してしまった。クールベの波のようにほんものの波を感じさせるように絵を描くことはもはや必要ないと考えられるようになった。絵は写実から自己表白、個性の表現に重点が置かれるようになった。

肖像画のなかに「自画像」がある。レンブラントはたくさん「自画像」を描いている。デカルトがオランダで暮らしたと同じ17世紀に、レンブラントが自我に興味を抱いたことは偶然ではないだろう。「近代」と「自我」「個我」意識とは切り離せない。

時代は産業革命の時代となり、市民の日常生活を工業製品が取り巻くようになった。馬車に代わって自動車が走り、蒸気機関車が鉄骨の大きな屋根を持つサンラザール駅に出入りするようになった。モネの絵は産業革命の華やかな時代を描き出した。

自我が目覚めた時代に、工業製品や華やかな商品が並ぶ都会生活に適合できない個が生まれた。ボードレールの「パリの憂愁」は、そのような都会生活への呪いの詩、出口がない個の魂の叫び声の集大成だ。ボードレールは、優れた美術評論家だった。ドラクロワについて書き、サロンの出品作をつぎつぎと取り上げた。

昔ほんの少し読んだだけで、ここに取り上げるわけにゆかないけれど、ひとつだけボードレールにふさわしいと思われるのは、銅版画家のメリヨンを詩人は評価し、詩集の挿絵に使いたいとメリヨンに会いに行くのだが、精神病院から出たばかりのメリヨンは断り、原版を破壊してしまった。版画が今日、刷の数を制限し、100枚なら100枚刷ったあと原版を破壊してしまうのは、このメリヨンの行為に元を発している。メリヨンの作品は、この原版破壊という行為のお蔭で売値が数倍に跳ね上がった。このことは「アンナがいたパリ」に書いた。

大事なのはボードレールが愛したメリヨンのパリの風景は憂愁に満ちた、狂気と紙一重のイメージを版画にしたもの。エドガーアランポーの「モルグ街の殺人事件」もあり、都会で暮らす芸術家の逃げ場のないメランコリーが絵になっている。ゴッホもそうだが現代(もしくは近代)絵画を観る時に病理学的側面を見逃せないと思う。

ボードレールが「旅への誘い」に詠った東洋とは当時ではオランダのことだった。
パリという都会の喧騒を逃げ出し、フォンテンヌブローの森の外れ、バルビゾンの田舎に住んで自然を友として暮らす画家たちが出て来た。ミレーとテオドル・ルッソー。

フランスの古典絵画では「風景」は人物画の背景として二次的意味しか持たなかった。風景を主題として絵を描いていたのはオランダの画家だった。ゴッホはオランダ人だし、ミレーの「種まく人」とか「積藁」の下で昼寝をする農夫の絵をコピーしている。

フランス絵画の最盛期ともいえる印象派の画家たち。モネは若い時、ミレーが住むバルビゾンを訪ね、脚を骨折して、隣村のヴィリエ・アン・ビエールの宿で数日寝込んだことがある。印象派の画家たちはオランダに風景画を学びに出かけもした。

いまでこそ、印象派はアメリカはじめ世界的に大人気だが、彼等はすべて官選のサロンに落選した画家たちだった。最初にマネが「草上の昼食」を応募して裸体の女性が服を着た男たちとピクニックしてる絵などけしからんと撥ねられた。モネもピサロも落選し、落選展を企画したのが南米生まれのピサロだった。

印象派の画家と象徴派詩人との個人的な結びつきも見逃せない。マネが黒一色で描いた「ベルト・モリゾ」の強烈な肖像。マラルメの弟子のヴァレリーはパリへ出てきてモリゾの妹だったか親戚の女性と結婚した。フォンテンヌブローに近くセーヌ河畔のヴァルヴァンという村にマラルメは住み、日本趣味に浸りながら詩を書くマラルメの許へ、対岸に住むオデイロン・ルドンが訪ねて来た。ルドンのパステル画は花や仏像や空を飛ぶ馬などをモチーフに純粋に個人の想像世界を描いている。

画家や詩人は社会という開かれた世界から個人の内面へ、都会の喧騒から静かな田舎へと遁走する。

モネは印象派の大家として晩年は首相のクレマンソーの保護を受け、睡蓮の連作は国家事業として財政的な支援を受けた。

モネの光と空気を追求した絵は、それまでの絵画の写実、記録としての役割とはまったく無関係に、新たな色彩の世界を開いてみせた。モネの積藁の絵などの色彩にインスピレーションを受けた現代画家は数知れないほどいる。その一人がカンデインスキーだ。

カンデインスキーによって絵画は外の世界を写すものから、内面を描き出す、表現の手段となった。抽象画の始まり。

一方、ゴッホの強烈な色彩は、ブラマンクなど野獣派を生み、マチスという面と色彩の大家を生んだ。

こんどゴッホ展で間近に絵の具の色と塗り方を見ることが出来た。原色はわずかで、草の緑なども中間色、原色にビストルと呼ばれる三原色(赤青黄)で作る色を混ぜて使っているのを発見した。これは全体との調和に配慮しながら一本一本の筆の色を塗ってることの証拠で、ゴッホの絵は激しいばかりではないのだ。ただ髭に緑やオレンジを使ったり、野獣派につながる色遣いを細部で行ってるのも確か。

最後に「色彩論」、色とはなにか? について。僕らは日本の高校で、ニュートンがプリズムを用いて日光を7色の虹の色に分解してみせたことを教わる。物に色があるのは、太陽光線の他の色を吸収し、その色を反射するからだと。万有引力を発見した物理学者のニュートンの主張に間違いはない。彼の光と色の理論は真理なのだ、と疑いを挟むことはない。

しかし、ブログで「シュタイナー」と「ゲーテ」の色彩論があることを知った。ゲーテは最後までニュートンの色彩論に反対した。ゲーテの色彩論はずっと主観的なものだ。それゆえ色彩と人間の心理との関係を知る上で重要に思う。たとえば黄色と紫は危険な色。黄色ばかり見つめていると気が触れてしまう。

第二次大戦中、ナチスが支配するドイツを逃げてフランスへ移住したハンス・アルトウングという画家をゲシュタポが捕えて色彩感覚を失くしてしまうために赤一色に塗られた部屋に閉じ込めた。幸いアルトウングは色彩感覚を失わなかったが、黒ばかりを使った作品をたくさん作った。ドイツ人でありながらフランス軍に入りムルーズのドイツとの激戦で片脚を失うといった稀有な画家だ。このことも「アンナがいたパリ」にちょっと触れた。

ニュートンの実験とゲーテの色彩論とはこれからの課題だ。色とはなんだろう? 光ってなんだろう? をこれからも考えてゆきたい。

  (つづく)

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