平和憲法と日米安保条約 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

日本国憲法(現行憲法)、とりわけその第9条は、「国際紛争の解決を武力に訴えない」、つまり「軍事力を持たない」日本は「永久に戦争を放棄」することを謳っており、世界で稀な平和憲法だ。第9条に謳われた精神は、第一次、第二次大戦という多数の国が犯した人類の歴史始まって以来未曽有の破壊と殺戮を生んだ愚行を二度と繰り返すまいとの固い決意を示す平和への願いが籠められた尊い理想的精神である。

しかし、この憲法の成立のいきさつには、日本がアジア・太平洋地域での主要な戦争当事者であり、なかでも太平洋でアメリカを中心とした連合国と戦って破れ、無条件降伏の後、連合国(GHQ)により戦争責任への懲罰として日本から軍事力を永久に奪おうとの意図が反映された歴史的背景があることを無視できない。民間の研究会による「二度と戦争を繰り返さない」との意思が部分的に反映されたことも否めないが、総体的には、GHQにより幣原内閣が半ば強制的に制定し施行された憲法だということを認めざるを得ない。

連合国最高司令官としてGHQの指揮をとっていたマッカーサー元帥は、極東の情勢変化によりワシントンにより左遷されるまでの間、日本の軍部の反対を押し切って終戦の決意をされた昭和天皇と10回に渡る会談を重ねた。日米両首脳の間に交わされた会談の内容が議事録がないため確認できないのが残念だが、当然、平和憲法制定後の日本の防衛、すなわち軍備と戦争参加についても話し合われたことは推察できる。

日本は、軍備を持たず、国際間の紛争を武力で解決しない、戦争を永久に放棄する、と人類の歴史始まって以来の理想的な平和憲法を高々と謳いあげ、国際紛争に巻き込まれた場合も国の安全保障を国連(United Nation)という国際機関に委ねる決意を表明したのだった。だが、日本国に君臨され、少なくも名目上戦争時の最高指揮者であられた昭和天皇は、一国の存在が理想を掲げるだけで維持できるなどというユートピア思想にたいして、その理想があくまで建前であって建前を維持するためにも現実的な軍事力による防衛体制が必要だというリアリズムを失ってはおられなかった。

軍事力を持たない国が世界にいくつかあるが、それは人口も国土面積も少なく資源も限られた小さな国、つまり外国にとって侵略支配する利益も意味も無いため軍隊を持たずに存続できるといった条件に依っている。

日本という国は、1億2千万人強の人口を抱え、地下資源こそ豊かとは言えないが、国土面積は相当に大きく、海洋資源が豊富、国民が皆働き者のために経済力が世界一になったこともあるくらいトップクラスで、周辺地域への影響力が大きい。

昭和天皇がマッカーサーと会談を重ねられた当時は、ソ連と中共という共産主義国家による現実的な軍事的脅威があったのであり、そんな時に丸腰では、みすみす、どうかお越しくださって日本も共産主義国家の仲間入りをさせてくださいと招くようなものではないか、この状況下で現実に日本の防衛をどうすればよいか? という問題はのっぴきならないものだった。

単独講和を決め、サンフランシスコ講和条約の締結に吉田首相が赴いたのだが、吉田さんは最後まで行きたくないと近親に漏らしていたという。講和条約とセットだった「日米安全保障条約」に署名したくなかったのだ。しかし、貴い方のご意志に背くわけにゆかず、吉田さんはたった独りで、講和条約締結の同じ日に「日米安保条約」に署名した。


しげる


日本は戦後体制の出発に当って、「戦争放棄=平和憲法」という理想主義と「アメリカの軍事基地、自衛隊=日米安保」というリアリズムとの表裏相矛盾した二本立ての体制を作った。大事なのは、この体制が、日本の議会制民主主義のプロセスを通じて日本国民の総意のもとに作られたものではなかった、という事実だ。

それは、アメリカという戦争に勝ったことにより世界の警察官となった強大国の意志と、日本に古代から君臨されてきた貴いお方=族長のご意志によるものだった。

平和への願いというものは現実には軍事力により支えられる。日本が朝鮮戦争や、ヴェトナム戦争や湾岸戦争に派兵せずに済んだのは「平和憲法」のお蔭であり、第9条を盾にとってアメリカの参戦要求を撥ね退けて来たお蔭といっても過言ではない。朝鮮戦争の危機を前にアメリカが日本に再軍備を求めた際、吉田首相は、当時の日本の経済状況で軍備に金を注げば日本が社会主義国になりかねないとアメリカを脅した。また自衛という概念について、吉田首相は「古来戦争というものは多く自衛を理由に行われてきた」と自衛戦争と侵略戦争とが明確には分別できないことを1950年代の初めだったと思うが国会答弁で述べている。つまり、吉田さんは当時、憲法第9条の戦争放棄の考えには防衛のための戦争も含まれていると考えていたのである。日本は吉田さんの意を継いだ池田首相の所得倍増論により高度経済成長を果たし、軍備よりも経済発展に全力を注いで、社会主義国よりも現実的に豊かで自由な社会を目指すことでアメリカの日本を反共の防波堤とする意図を支えてきたのだった。


答弁


戦後、日本の国民に広範に支持された「平和と民主主義」というスローガンをみても、安保条約改定反対運動が国民的規模で高まった1960年の段階ですでに、自衛隊というれっきとした軍隊があり、憲法第9条は現実と乖離した「蜃気楼」と化していたにもかかわらず、「平和と民主主義」が唱えられ国民に支持された。ひとりの族長と戦勝国の最高司令官の意志によって決められた安保条約は、はじめから民意を反映したものではなかったし、「平和と民主主義」のスローガンも現実の日本には存在しないからこそ「掛け声」として広範な支持を得ていた。国会を連日取りまいた数十万人という規模のデモ隊もほとんどは「陳情」に詰めかけた集団だったのだから、自動延長の期限が来て条約が発効してしまった後、それ以上反対のデモを続ける理由がなくなり、運動は自然消滅した。つまり「平和と民主主義」という理想は現実の事実の積み重ねの前に敗退したのだった。

湾岸戦争から状況が変わった。アメリカは強大な軍事力を世界中に維持できなくなったし、極東で日本は自前の防衛をもっとすべきだという議論がアメリカでも強くなった。「金だけ出して血を流さない」日本を湾岸戦争後、アメリカはじめイラクに出兵した国々は「日本は国際的な役割を果たしていない」と倫理的に批判するようになった。中東からの石油で日本の経済発展が支えられているのにホルムズ海峡の自由な航行を守るために戦って血を流してる我々の若者を金で買って済まそうというのか? という倫理的な非難には平和憲法を杓子定規に護持して現実の脅威に立ち向かわず豊かさに安穏としている日本国民への欧米諸国民の非難が見てとれる。俺たちは経済的繁栄も自由も身体を賭して闘い守ってるのだという……。

北朝鮮のミサイルによる恫喝。中国の海洋支配、制空域の拡大。湾岸戦争はまだ「遠い戦争」だったが、いま脅威は身近になった。

国連と国際司法裁判所に紛争解決を委ねる道は少なくとも姿勢だけは取り続けるべきと思うが、現状、国連も国際司法裁判所も強制力は持たないし、二国間の紛争は当事者同士で解決すべきだ、という昔からの原則は変わっていないような中で、国際紛争の解決を全面的に国際機関に委ねて安穏としているわけにはゆかない。

「国民の大半が危機に晒されるような状況に陥った場合に自衛の戦争をするために軍備が必要だ」という趣旨には賛同できるし、憲法には、「国民の脅威に対しては戦うべきだし、そのための軍備も持つ。明らかに攻撃を受けた場合は防衛のために戦争も辞さない」とはっきりと謳うべきだと思う。でないと自衛の闘いすら国民の間で賛否が分かれていると侮られることになる。

自衛隊という軍隊を持っている現状に憲法第9条は甚だしく矛盾する。これを矛盾と捉えず解釈によって自衛のための軍隊は正当化されるのだという議論には、「どんな戦争も自衛のための戦争だ」という議論と同じく戦争の放棄、平和への意志を謳った憲法そのものの否定に向かわせる危険が潜む。自民党は、なぜ憲法改正を堂々と主張せず、またもや解釈変更などと姑息な手段で誤魔化そうとするのか?

反対に護憲派の考えにも全面的に賛同できない。軍隊を持ちながら、その現状を認めることをせずに平和憲法護持を唱え続けることは国民を騙し続けることなのでモラルうえで正しくないとめのおは思う。

「ユートピア」や「理想」を人間はどこかに持ち続けるべきだとは思うし、せっかくの平和憲法を消してしまいたくないという感情はめのおにもあるが、「絵空事の文言と国民の命とどちらが大切か?」を考えてみれば、反戦の理想はあくまで保つが、理由のない攻撃から国民を守るとはっきりと謳うべきなのだ。国の姿、ありようを規定する憲法が現状と甚だしく矛盾する、つまり「嘘(ウソ)」を謳ってるものならば、「ウソ」の憲法を掲げる国民の誠意が疑われる。

「ウソの憲法」が敗戦後の特殊な状況の中で生まれ、国民の総意に基づいて作られたものではないのだから、後生大事にそれを擁護すべきという議論は説得性に欠ける。どこか状況に拠りかかった、オポルチュニストの匂いが着いて回るのだ。

日本の国民がいま問われているのは、日本が本当に民主主義の国として、国民の総意としての憲法を自らの意志に基づいて作れるのかどうか? ということではないか。国の司法、立法、行政の仕組みと在り方、軍と警察という権力の暴力装置、また国の防衛に係わる秘密情報の扱い方、表現と結社の自由など基本的人権の保障を、明瞭な日本語で、日本人の誰にもわかる文章で明記した憲法を日本国民自らの手で作るべきではないか。

ワイマール憲法を残したまま、解釈によりナチスの悪しき意志による支配を許した
ドイツ国民の轍を踏むようなことは断じてあってはならない。ファシズムは芽のうちに摘み取らねばならない。

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