「偶然の出会い」に人は感激し、「奇遇」だとか「奇縁」とか、世間一般に言われていることが本当にあるのだなと認識を改め、そのようなことが自分にも起こったことに苦笑しつつも、人智を超えた何か目に見えない意志が働いたのでは? と不思議な感慨に捕らわれる。そして少し敬虔な気持ちになり、目に見えない意志が自分の身に働いたことには何か深い意味があるのではないか? と探り始める。
昨年から花をつけ始めた白い芍薬↑
「偶然性の問題」(九鬼周造)という本を昔買ったまま、読まずにしまってあった。こんど本を整理していて出て来たので拾い読みをしてみる。すると、「奇遇」「奇縁」とかに出くわした時に人間が抱く感情は「驚異」であり、「偶然性が驚異といふ興奮的感情をそそるのは問題が未解決のままに『眼前に』投出されるからである」という文が出て来た。続いて九鬼は、デカルトの、「驚異は精神の突然の驚愕であり、精神にとって稀有な異常な事物を注意して考察するようにさせるものである」を引用している。
必然は、ある原因からこの結果が導き出されることは当然であり、人間はそれに対して沈静の静的な弱い感情しか持たないが、「可能および偶然は問題性のために、緊張および興奮の動的な強い感情を齎す」という文も面白い。必然は「過去的決定的確証性」という言葉で特徴づけられるとしている。
ここで九鬼が「問題性」としているのは、偶然を哲学的考察の対象としているからで、僕らが日常生活の合間に稀に出会う「偶然な出来事」に対する驚きの感情は「問題性」に対する驚きというよりも、むしろ可能性としては希なことが現実に起こったという希少性に対する驚きであることの方が多いだろう。「希少性に対する驚き」を九鬼は次のように哲学的に説明している。
必然性が「既に」という過去を時間性格として持つのに対して、可能性は未来の時間性格をもつ。
必然性の過去と可能性の未来という時間性格に対して偶然性は「いま」という現在を時間的性格としてもつ。
「さうして一般に可能が現実面へ出会う場合が広義の偶然である」「なほ勝義(言葉の本質的な意味)の偶然とは特に最小の可能性が、もしくは不可能性が現実面へ出会う場合にほかならない」
自分の記憶にしか残っていないだろうと思っていた場所を知っている人と出会った。その場所が今も在る限り、そこを知っている人がいる可能性があるわけだが、場所が田舎の小さな村だけに、そこを知ってる人は極めて稀だろうし、ましてやそんな人とこんな場所で今、現実に出会うなんて思ってもみなかった。そんな稀な人とその場所から遠く離れた外国で出会う可能性はゼロではないにしても極めて稀なことだ。その稀なことが現実に起こった。「偶ひがたくしていま偶ふことを得たり」(教行信證)
「現実性が時間的には現在を意味する限り、偶然性の時間性も現在でなければならない」、と九鬼は、必然性、可能性、偶然性における「時間」、より正確には「人間的時間の問題」を提出する。
九鬼の言葉を続けると「一般に偶然は現在性において創造されるものである。また勝義の偶然は未来的なる可能性減少の極限として未来なき不可能性の無から、現在の非存在的一点をくぐって忽然としてほとばしりでるものである」と、なにやら西田哲学風の概念語が連発されるので解りにくいのだが、要は偶然は可能性が無に近いところから現在の(非存在的一点とは分かりにくい用語だ。ありようもない点((幾何の公理では大きさが無いもの))をくぐって忽然としてほとばしりでるものだという。音韻的な面だけをみれば、これは美しい言葉だ。
偶然に得たモノ、もしくは出会った人を契機として、その現在を可能性である未来へ繋げる作用は人間の意志である。可能性と未来との関係を強調する哲学者にハイデガーがある。「投企としての関心および先駆としての決意性の観念」。投企とは可能性を可能性として予め自己の先に投げることである。これは、めのおが今やろうとしていることを哲学的に意味づけるための引用。
今が盛りのモーツアルト ↑
「時間性」の問題は興味あるテーマで、これから探ってゆきたいが、難しくもあるので、今は素通りして、他へ飛躍する。
華美で快適な代わりに皮相で空虚な都会の文明生活を捨ててタヒチの半原始生活へ移住して絵を描き続けたゴーギャンが、その生の最後に描いた「黄色いキリストの像」は画面の上に文字が書きこまれている。「われわれは、どこから来て、どこへ行くのか? われわれは何者か?」
wohin und woher?
英国の作家、サマセット・モームの作品に、ゴーギャンをモデルにした小説がある。銀行員だったチャールズ・ストリックランドは、社会的地位、職業、妻や家庭を捨てタヒチへ移住する。「すべての物を捨て去って、魂の内なる領域、人格No2の世界に向かって人間としての自己の生の意味を問うてゆく企て」に乗り出したのだった。日常的生の彼岸にあるもの、「わたしの地上の生はいったい、どこから来てどこへ行くのか」wohin und woher? という問いに向き合うためだった。
ここでいう「人格No2の世界」とはユングの用語で、「人間性の深い本質(essential man)を開示し、個体の魂の中に胎児的萌芽状態で潜在しているパーソナリテイーの諸可能性」というような意味で、上の「自己の生の意味を問うてゆく企て」とは、「潜在しているパーソナリテイーの諸可能性」をそのすべての様相において実現することを目指すものである。((湯浅泰雄著、「ユングとキリスト教」講談社学術文庫を参照しました)
(つづく)


