聖母病院を過ぎたあたりで細い路地を左折する。ほんとにこの路かな? と心配してしまうほど細い道です。ほんの50mも行くと、標識が目に入ります。目指すは、佐伯祐三アトリエ記念館↓
パリで30歳の若さで客死した画家、佐伯祐三が大正10(1921)年に米子との結婚を機に新築したアトリエ付き住宅。住宅に囲まれた小さな公園の中に新宿区がアトリエを復元し、公開したのは2010年4月とつい最近のことでした。
祐三と米子がこのアトリエを建てた当時、ここは、豊多摩郡落合村字下落合661番地(現・中落合2丁目4番)でした。
祐三が、ここで生活し創作活動をしたのは、米子夫人と娘の彌智子とともにフランスへ向かう大正12年までと、大正15年に帰国し、再びフランスへ渡る昭和2年までの合わせて4年あまりにすぎません。
若い頃結核に侵されていた祐三は健康を気遣う母親の願いで一旦は帰国します。パリから帰国する直前に佐伯は、知り合いとなっていた作家の芹沢光治良に油彩画を数点預け、「日本に伝統の日本画の勉強に留学して来ます」と言い残して帰郷します。
下落合に滞在する間も佐伯は周辺の風景を数点描いています。
物質感に満ちたパリの街並み、石の壁と塀、なんども塗料を重ねて塗られた重量感ある扉。油絵の具はそうした題材に相応しい。でも、帰って来た東京の郊外では自然と人間が融け合って暮らしています。当時の落合村ではまだ自然が占める割合の方が大きく、空や畑の中に民家が独立して建っている。そうした世界を、従来の日本画や墨絵ならいざしらず、油彩画で描こうとするとき、画家は、ある種の欠落感、なにかがそこには掛けている不足感を抱いたのではないでしょうか? 帰国して1年と経たないうちに佐伯祐三の心は早くもパリを向きます。
再度の渡仏。佐伯は憑かれたように毎日パリの街角に三脚を立ててキャンバスに向かい、一日1枚以上、超人的な創作力を発揮して描き続けます。石の壁のずっしりと存在感のあるマチエール。現代のアンフォルメルに通じる面を主体にした画面。宋の禅画を思わせる毛筆で描いたような線。ポスターの文字が画面をはみ出し氾濫してゆくかのようなアクションペインテイングの先駆けともいえる絵。
佐伯は確かに当時の日本人が到達したことのない独自の新しい世界を切り開くことができました。命を賭けて。2度目のパリは佐伯の命を奪いました。
祐三と彌智子の遺骨を抱いて帰郷した米子夫人は、下落合のアトリエで絵を描き続け、1972(昭和47)年に亡くなりました。
佐伯のアトリエ記念館から歩いて15分ほどのところに、中村彝(つね)アトリエ記念館があります。やはり新宿区立。
中村彝(つね)は1887(明治20)年、現在の茨城県水戸市に生まれました。藤田嗣治の1歳年下となります。
彝(つね)は若くして両親を亡くし、陸軍軍人の長兄を頼って上京、牛込と大久保に住み、二人の兄同様軍人を目指して名古屋の陸軍幼年学校に入学しますが、やはり結核と診断され、軍人を諦めて画家を志しました。
アトリエ記念館には、彝(つね)が愛用した家具が展示されています。
つづく


