ちょうど40年 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

中村ツネが画家を志して最初の頃の作品、明治43(1910)年に文展(文部省美術展覧会)に出品し三等賞を受賞した「海辺の村(白壁の家)」は、暖かみと厚味がしっとりと落ち着いた色彩と筆触で描かれていてなかなか味わいのある作品です。


緑の教会
     新大久保駅前通りにある緑の教会。 めのおはお初にお目に掛った。


翌明治44年にツネは新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光夫妻の好意で中村屋裏のアトリエに移り、相馬夫妻の長女俊子を愛するようになり求婚しますが、周囲から反対され失意のうちに、大正5(1916)年、ここ下落合にアトリエを新築し移ります。俊子は大正8(1919)年4月に亡命中のインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと結婚し、落胆したツネは、平磯海岸へ病んでいた結核の療養に行きますがそれも虚しくが病状は悪化します。

大正9(1920)年には、友人の鶴田吾郎と競作して、やはり中村屋に滞在していたロシア出身の盲目の詩人・音楽家ワシリー・エロシェンコの肖像画を描き、帝展で高い評価を得ます。大正12年の関東大震災でアトリエが傾いたもののツネは無事でしたが、翌13(1924)年突然喀血し37歳の生涯を閉じます。

モダン
       ちょいとオシャレな建築ですね。 これも新大久保通り。


この時代は、ちょうど佐伯祐三が渡仏した時期と重なり、また新宿中村屋が当時の文化活動に果たした役割には注目すべきものがあります。インドの独立運動と日本の文化人との関係、めのおの関わりでいいますと、ロマンロランがタゴールやガンジーやラマクリシュナと友好を結び、日本の倉田百三の「出家とその弟子」の出版にあたって序文を寄せたことなどとも繋がります。

関東大震災に際して無政府主義者の大杉栄が甘粕大尉により逮捕惨殺されるわけですが、大正から昭和初期にかけての外に向かって開けた自由な文化的風潮が、内に向かって国家という枠を固め強化しようという動きに縛られて行く、そういった過程が見える時代だと思います。

このように、めのおは絵画という枠内に関心を留めておれない性分なのです。世俗に眼が向いてしまう。

ツネのアトリエからJR目白駅に向かって歩く途中に「足立版画」があります。ここは、このブログを始めた2008年に浮世絵の刷りの実演を見に入ったことがあります。こんなに近くだったとは。目白通りには尺八と篠笛の店があります。この日は他に急ぎの用があるので素通りして目白駅へ。


黄色
  ぎょっ! これは、なんの店じゃ? 6年前はこんな色じゃなかった。 アメリカかい?


新大久保駅で降ります。めのおはこの駅の近くで生まれ、毎日、山手線の走る音を聞きながら20歳まで育ったので、ここが生まれ故郷なのです。6年前帰った時は、コリアンシテイーへの変貌ぶりがショックでしたが、今はもう慣れて驚きません。

駅のホームも改札があった場所もガードも構造は50年前そのままです。雨男の父親が出張から帰るたびに傘を持って駅の改札で待っていたものでした。


プレート
                  新大久保駅構内の壁に貼ってあるプレート ↑

ホームから階段を降りた踊り場の壁に、このプレートが貼ってあります。線路に落ちた人を助けようと、咄嗟に飛び下りたお二人が命を落とされたのです。お一人はカメラマンで、もう一人は韓国人の学生さんでした。韓国人の中には自分の命の危険を顧みず、人の命を救おうと身を投げ出した人が居るのです。日本という国と韓国という国の関係が今少しぎくしゃくしています。個人のレベルでは、
この二つの民族の関係は切ろうとしても切り離せない関係にあることを忘れてはならないと思います。

インドの独立運動家を助けた中村屋のような存在があった。当時の日本が英米の植民地主義と闘いアジア諸国の独立を助けようとした、そうした意志の流れがあったことは確かだと思います。朝鮮半島においても、鉄道を敷き、ダムを建設し、学校ではハングルと日本語を教え、「いいことをしてやったじゃないか」という議論もあると思います。けれど、どんなに良い事をしたとしても、その国の「主権を奪った」という歴史的事実は消しようがない。英米蘭仏の帝国主義を真似しただけだ、彼等だって過去の行為を謝ったりしない。だから俺たちも謝る必要はない。それもひとつの論理でしょうが、ひとつ違う点は、英米蘭仏は白人の国であり、日本はアジア民族に属する国だ。過去の戦争はなんだったのか? 欧米の植民地主義からアジアの同胞を解放するため。そういったスローガンは、戦争も終わりごろ無理に取って付けた理由に見えて仕方がありません。戦争の原因はひとつではなく、幾重にも重なっています。違った視野を見出す必要があると思います。


通り

   生まれ育った路地を見つけました。↑ この細い路地を通って高校へ通学したものです。


新大久保駅前商店街。ちょうど、今からぴったり40年前の3月半ばのことでした。シベリア経由、スカンジナヴィアを回ってパリに行くというめのおを気遣って母親が、ここの商店街にあった小さな洋服屋で膝までのハーフコートを買ってくれたのでした。

出発の日、横浜の埠頭は暖かくて、桟橋にいたHがコートを脱げとジェスチュアを送ってくれました。見送りに来てくれた4人のうち3人が他界し、今は兄だけが残っています。母の心配は正しく、フィンランドのハメリンナからスウエーデンのウメアという町へ海を渡った時、3月の20日過ぎでしたが、海の半分は氷で覆われていました。

   つづく

ペタしてね 読者登録してね