レイシスム小論 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

「レイシスム」とか「反ユダヤ主義」とか呼ばれるが、実際の人種差別から起こる虐待は、ある邪教に似たものによって、あたかも理論的な根拠があるかのごとく作られた「観念」に拠っており、その観念は憎悪という人間が持つ非合理な情熱、パトスに根差していると思う。


レイシスム


「わかるでしょう。ユダヤ人にはなにかがあるんですよ。肉体的に私を困惑させるなにかがね」と、公然と言うのを避けても、こっそりそう思ってる人たちがたくさんいる。が、これは「トマトには何かがある。なぜなら、わたしは、それを食べるのが大嫌いだから」というのと似たりよったりの話で、情念のロジックに発している。

つい最近、フランスのナントの街で、反ユダヤの小演劇をマニュエル・ヴァルス内務大臣が上演禁止措置をとった時、(それは直後にパリでは許可されたのだが)、フランスのような自由を建前とする国で、「表現の自由」の原則に反する行政措置がとられたことが信じられない、という反応が多く見られた。

「反ユダヤ主義」は「表現の自由」が保護する思考のカテゴリーには入らない、とサルトルは言う(「ユダヤ人問題について」。

「ヘイト○○」が最近はやりだけど、「憎悪」というのは感情、情熱の領域であって「思考」とか「思想」とかの範疇に入らず、「主義」と呼ぶにも値しないパッションの作用だ。体制とか秩序に不満を持ち、破壊や暴力や虐めや虐殺といった形で表出されることが多い。

反ユダヤに限らず、「民族差別」の問題は、それが情念に発していながら、穏健な、時には進歩的な形態の下に、理性的な見かけを持った論によって表現される。フランスのゴビノーは東洋人に対する差別意識を、さりげなく分析的に表現した。ゴビノーの論はワグナーの娘婿のチェンバレンを通じてナチスのアーリア民族優生論に結実した。それは思想と呼ぶに値しない、諸説混淆の論なのだ。ナチスは日本人を劣等民族と見做していたのだから日本のネオナチ諸君はナチスをこそ憎まねばならないのだ。

民族差別は「思想」や「主義」ではなく単に「邪教」と呼ぶに相応しい。怖いのは、差別の観念が肉体まで支配し、変容を導いてしまうことだ。この現象について、サルトルは興味ある例を挙げている。

「ある男は、彼がセックスをした相手の女性がユダヤ人だと知って、突然不能に陥った。ある種の人に、中国人や黒人にたいして嫌悪があるように、ユダヤ人にたいする嫌悪がある。そして、この反感(反発)が肉体から生まれるものでないことは、もしあなたがその人種を知らなかったならば、一人のユダヤ女性を充分愛すことができるのを見ても分かる。その嫌悪感は精神から肉体にくるのである。それは魂のアンガージュマン(選択)である。それは、あまりにも深く、全体的であるゆえに、ヒステリーの場合と同じく身体的に広がってしまうのだ」(JP-サルトル「ユダヤ人問題について」J.P-Sartre 「Réflexions sur la question juive」 p.10)


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