火消の装束の一隊は、広場で青々した太い竹の梯子を先端に鉤のついた棒で支え、身軽な男の人がするすると上って、梯子の上で軽業を演じた。ひとしきり演じると、一団は、植木屋さんの入り口から入ってゆき、お祝儀や、景気づけの一杯を振る舞われるのだった。
ブログには「出初(でぞめ)」なんて言葉を見ないので、今でもあるのか? と検索すると、東京消防庁や横浜で、伝統は続けられている。ただ写真を見ると、火消のとび職の梯子が自然の竹ではなくカーボンか合成樹脂のようだし、曲芸はあるが、全体としては消防車に銀色のヘルメットの現代的な消防隊のデモになっている感じ。
なんで火消がとび職なの? と子供心に持った疑問は、町火消の本職は建設業で、江戸時代の消火法は、火災現場周辺の建物を破壊し延焼を食い止めるという原始的なものだったので、建物に詳しく、身軽で屋根に登って軽業的な作業ができる「鳶(とび)」職が選ばれたんだそうな。
この「町火消」というのは、江戸城の火災警戒に当たった旗本10家からなる専門部隊の「定火消」と違って、町人の自営組織として享保3(1718)年に江戸奉行大岡忠相が創設したもので、「いろは47組」「本所深川16組」総勢約1万人で構成され、費用は町の負担だった。
現代の消防組織で言えば、消防庁、消防署など専業公務員が「定火消」で、他に本業を持ちながら火災になると駆けつけるボランテイア「消防団」が「町火消」ということになる。フランスでもこの制度が今でもあり、子供たちの憧れの的だ。
「定火消」の組織は、最初、たぶん明歴3(1657)年の明歴の大火をきっかけに、まず旗本4家が選ばれ、ついで宝永元(1704)年には10家となった。与力6騎、同心30人、そして「臥煙(がえん)」と呼ばれる火消人足が100~200人いた。
「定火消」の選定基準は、6万石以下の大名で、1万石につき30人の火消人足を出した。
江戸も末期の元禄時代になると、「定火消」に選ばれる大名は16家となっていたようだ。そして、赤穂浅野家もこの「定火消」に選ばれた。
ここまで書くともうお気づきだろう。そう、赤穂浪士の討ち入りの装束は「定火消」の装束だったのである。
子供の頃、吉良邸に討入った47志は何故ひとりも死ななかったんだろう? と思った。吉良側は討ち入りに備えて清水一角はじめかなりの人数の遣い手を召し抱えていた。いかに志士たちの、幕府の片手落ち処罰に異議を申し立て、殿の無念を晴らそうという意志が強かったにしても、怪我人が出たくらいで返り討ちにあった者はひとりも出なかった、というのが不思議だった。
画像はグーグルからお借りしました。
秘密は、「火消装束」にあった。昔読んだ森村誠一の「真説忠臣蔵」だったか、タイトルはおぼろだが、この小説には、志士たちが火消装束の下に、鎖を巻き、刀の刃が当たっても切られない万全な防御を施して討ち入りに臨んだと書いてあった。ほかにも火消装束なら夜江戸の街を武装し門を打ち破る大きな槌を担いで歩いても、検問や見回りをごまかせる利点がある。
小説というのは、面白く読ませるために、実際とは違った誇張や修飾を加える。だから、この森村さんの小説もかなりな誇張があるようなのだが、実際、大石内蔵助の衣装は「瑠璃紺の緞子(どんす)に小手、股引、股引には鎖を入れ、脚絆に草鞋履き」といういでたちだった。他の同志たちへの衣装について大石が書いた手紙にも、黒の小袖、股引、あるいは茶羽二重は裏付き、帯の上を「鎖手ぬぐい」で巻き、股の間に鎖を入れるよう指示している。
有名な、白黒だんだらの「鋸歯文(きょしもん)」は歌舞伎の創作で、幕末の新選組が、歌舞伎の忠臣蔵にあやかって、この羽織を着用した。



