陽明学の系譜 その③ | 雷神トールのブログ

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「世界史を読む」シリーズをアメンバー限定記事で連載されている「ともすけ」さんは、こんど「とも散歩」をはじめられて、お住いの地域のありのままの姿をご紹介されている。ともすけさんが新潟にお住いで、前回のめのおの拙記事にコメントをくださったことから、5年ほど前に読んだ本を思い出し、取り出してみた。本は、半藤利一著「山本五十六」(2007年 平凡社刊)。


五十六
                   山本五十六 
連合艦隊司令長官


北越戊申戦争で、土佐藩出身の軍監岩村精一郎に小千谷で会談に臨んだ河井継之助は、無駄な戦をとめ、越後・奥羽の地を血で塗らぬよう会津、桑名、米沢の諸藩を説得し、長岡藩の藩論も中立で統一するので、しばしの時日をかしていただきたいと最後まで、訴えたが、西郷ほどの胆力も戦略観もなかった岩村ににべなく撥ねられた。

「中立など許されるものか」と座を立とうとする岩村の袖をつかんで継之助は嘆願したが、振り払われた。

「かくまで誠意を尽くして嘆願しても、お認めなくばやむをえぬ。弓矢の道の命ずるとおり、一藩を焦土とかしてもお相手仕ろう」

こうして継之助は、決して勝つ見込みのない官軍に敢然と立ち向かった。

このくだりを読んだめのおは、浅野内匠頭が殿中で吉良上野介に切りつけた場面を思い出した。日本人の心理には、こういう反応が数多くあるのではないか? 我慢に我慢を重ね、ついに堪忍袋の緒を切って激発する。赤穂数万石のお家断絶と藩士を路頭に迷わせる結果を承知で、内匠頭は自滅への刃を抜いた。利害成否を越え邪悪を討つという気概なのか、あるいは言葉では表しがたい、なにか無償の情念とでもいう表白があるように思う。

めのおの親の家紋は浅野家と同じ「鷹の羽たがえ」なので、先祖は赤穂浪士と繋がりがあるかもしれないなどと子供心に思ったものだ。河井継之助の激発が、単に越後の雪深い冬により形成された性格とは思えず、そこには日本人に共通の、「耐えに耐えた上の激発」という感情と行為のパターンがあるように思う。これは、陽明学と直接関係づける必要はないかもしれぬ。もともとある、感情と行為のパターンに陽明学の「良知」とか「知行合一」という観念が与えられ、より意識的になった。三島のケースはそれではないか。

半藤利一著「山本五十六」という本は、2008年に帰郷した折に、偶々本屋で見つけ手に取ったものだが、河井継之助と、真珠湾攻撃を決行した連合艦隊司令長官、山本五十六との風土的深層での繋がりを明かしてくれた。長年文芸春秋の編集長を務められた半藤氏は長岡の出身で、山本五十六は長岡中学校の先輩にあたるという。

「彼個人の支えとなっていたのは、過去四十余年を生き貫いてきた思想的な美意識であり、成敗を問わず、断じて行けば道が拓けるという並々ならぬ闘士と自信であった。彼が学んだ陽明学の知行合一の論そのままに、『事を起こすに利害成否を論ずるを恥ずべし』であったのである。」(半藤利一著「山本五十六」 2007年 平凡社刊)

山本五十六と河井継之助との関係は、継之助の片腕となって、会津まで転戦した末に戦死した長岡藩家老山本帯刀(たてわき)の名跡を継いだのが、海軍少将となった高野五十六であり、1916(大正5)年以後、山本五十六となった。河井と山本の両家は、明治になってからも逆賊の烙印が消されることなく、世に隠れて、山本家は富士姓を名乗っていた。明治22年の憲法発布の恩赦で、やっと
罪名消滅となったのであった。

半藤利一氏のこの本は山本五十六が主題なので、河井継之助がどのように陽明学を学んだかについては触れていない。ただ、継之助が「炸裂するような激しさで美学的な破滅を選んだ稀な傑物」であったかもしれないと書き、「その忍耐強さ、克己の一方で、河井継之助によって示されたような、炸裂するような非合理への爆発力」という表現に日本化された陽明学の徒を見ることが出来るのである。

陽明学の祖、王陽明には、「死を美化し、みずから死を求めるという思想は見られない。むしろ、いかに生き抜くか、どうしたら充実した生涯を送ることができるかが陽明学の最大の課題である。悪戦苦闘の連続の中で何としてでも生きて見せるというのが陽明学の真骨頂であったように思われる」と「王陽明 - 百死千難に生きる」の著者山下龍一氏は書いている。

北越戊辰戦争で観るならば、河井継之助のライバルであり、河井の無謀な戦いに反対しながらも、戦火により文字通り灰燼と化した長岡に、見舞いに送られた米百票を売ることで国漢学校を建て、百年後にも生き延びる基を築いた、小林虎三郎に王陽明の真の思想が受け継がれていたといわねばならない。

心情的に、日本の庶民は、忠臣蔵の赤穂浪士、小林虎三郎よりも河井継之助を、そして山本五十六の悲劇的な生涯を好んできたのではないかと思う。

昭和16年9月12日、ルーズベルト大統領との頂上会談を構想していた近衛文麿首相が山本五十六に
「万一、交渉がまとまらなかった場合、海軍の見通しはどうですかね」
と訊ねたのに対し、山本五十六の答えは、
「それは、どうしても私にやれといわれれば、一年や一年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できかねます」
というものだった。

 戦後になって井上成美がきつくこのときの山本の言葉を批評したことに半藤氏も賛意を表しながら、こう書く。
「山本はふだんからいいつづけている非戦論をそのまま素直に述べればそれでよかったのに、……そう思いつつも、山本の腹の底の底にムクムクと長岡人の『いっちょ前の精神』が頭をもたげていたのではないか。…… われに零式戦闘機、酸素魚雷、一式陸上攻撃機あり、これらがあれば、1年や1年半は……。それは河井継之助がガットリング銃を手にしたときの、忍従から一挙に『何事か成さずんばやまず』と爆発する想いと同じではなかったか。」


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