日記を読んでいて注目されるのは、ロランが侵略者のドイツ兵にも、まったく憎しみを感じさせず人間的な視線を投げかけ観察していることです。音楽学が専門であり、ベートーヴェンやゲーテなどドイツ文化に造詣が深かったロランならではと言えるでしょうが、ロランだけでなく、夫人やロラン家のお手伝いさんまでが、ドイツ兵に対し、敗戦国の人間が普通持つ怯えや諂いもなく、まったく対等に交渉している様子が書かれています。
6月の日記は、休戦協定が結ばれた日の前後など、根も葉もない噂が飛び交い、戦時など混乱が引き起こすデマや風評が書かれています。レイノー首相がカナダに逃げたとか、暗殺されたとか、ドイツでクーデタが起こったとか、デマが飛び交うんですね。
6月中の主な事件は、フランス人捕虜の部隊が到着した翌日、大聖堂に行って見ると大勢の捕虜が聖堂内部で寝泊まりし、聖なる場所が捕虜たちの「糞尿」で汚され、司祭からなんとか住民の手で始末してもらえないかと頼まれたりします。
最初の捕虜が引き上げた後、もう一度大きな捕虜の部隊がヴェズレイを通過します。ロマン・ロランの家にドイツ兵が数人でやってきて、泊めて貰えないかと頼みます。夫人のマリーは、ウチにはもう10人も泊まっていてスペースがありません、と断り、お手伝いさんは、あんたたち若いんだし(6月のいちばん気候の好い時)外の木の下で寝ればいいじゃないの、と平気で突っ返します。もう4日も木の下で寝てるので、ベッドに寝たいとドイツ兵は、食い下がり、マリー夫人が折れて、なら台所にベッドを置くがそれでよいか? と訊くとドイツ兵は諦めて、行ってしまいます。
次の日には家の裏側のガレージと庭を使わせてくれとドイツ兵がまたやって来ますが、車を3台も停めねばならないからと断り、替わりに道路を挟んだ向かいの果樹の植わった牧草地がロラン家の所有だったらしく、そこを提供します。
ロラン家の裏側。石塀の向うに道路があり、その向うに樹木と牧草地が広がっている↑
馬がたくさんそこに連れてこられ、15・6歳ほどの少年兵も交えた若いドイツ兵がそこで生活する様子が書かれています。
こんな風に占領の最初の日々は、暴力とか強圧的態度とかまったくなく、どこか移民の集団を受け入れるような温和な雰囲気を感じます。
ドイツ軍が来ると聞いただけで恐怖に襲われ、荷物を持てるだけ持って、どこへと当もないままに南へ南へと遁走した大部分のフランス人と比べて、やはりロランは例外だったのかもしれません。
ロマン・ロランは1866年1月29日の生まれで、1940年6月のこの時点では74歳と5か月の高齢でしたし、4年後の1944年12月30日に、このヴェズレイの家で息を引きとってしまうので、すでに死については達観していたのかもしれません。その辺も日記を読むうち内面的な記述が期待出来そうな気がします。先回、意訳でもご紹介したように、もうこの年齢になっては、道路を埋め尽くす避難民に混じって歩くのを考えただけでも恐怖を感じると書いていますね。ロランが恐怖に駆られて逃げ出さなくて幸いでした。ドイツ兵たちの、粗暴でも野蛮でもなくむしろ礼儀正しい品性すら感じさせる姿をロランは書いています。
その辺は、ヨーロッパの同じ文化を共有する隣国との戦争であり、中国と日本、アメリカと日本との戦争と、少し違うなと感じてしまいます。ところで日記を全部訳していたのでは、版権の問題などもあるので、少し飛ばして7月に移ることにします。
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(1940年)7月7日(日)
雨と霧。―― 朝、荷を満載したトラックと自動車の大掛かりな部隊が、アヴァロンからクラムシー方向へ通過していった。―― それは一日中続き、車の響きは絶え間がなかった。赤十字の車、大砲、疲れきった男たち。この部隊は、次の行動を待ちながら、一休止するのだろう。
午後、リューベック出身の将校と、ドレスデン出身の当番兵(原注:ルドルフ・メイとロチッシュ当番兵)の訪問を受けた。当番兵は上品な男で将校も対等に扱っていた。ふたりとも1920年からの「ジャン・クリストフ」の愛読者だった。そして「調停者」に対してこの上ない敬意を抱いていた。彼らは、最初の訪問者が私に告げたことをまたも肯定した。―― 私の著作は今日でもドイツでたくさんの読者を持っている、と。私の最近の著作は知らない様子だった。―― 奇妙なことに、私の1914年に果たした役割(原注:ドイツでは私の「戦乱を超えて」の翻訳は決して許可されなかった)を知らないようだった。
―― ふたりは、ブイヨン、ランス、トロワを通って来た。二週間に渡り、この地方(シャンパーニュ地方)を観光して魅惑されたという。彼らは住民たちが、あわてて遁走したことが理解できなかった。住民の逃亡がフランス軍の行動を大いに妨げたとまで言った。デザイエがベルガモから持って来た一連の油彩画にふたりとも興味を持った。
夕方のラジオは、フランス艦隊がジブラルタルを攻撃したことに反撃がなされたことを告げた。夜、なかなか眠れず。
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この日の日記は、ロランは自分の著作がドイツで今も読まれていることに満足した様子を隠していません。「ジャン・クリストフ」はドイツ人の音楽家の一生を描いた大河小説なので一時期フランスでは人気がなかった。ケルンの聖堂には子供を抱きかかえて河を渡る聖クリストフの彫像が立ってます。モーツアルトやベートーヴェンをモデルにしたとも言われる主人公の「ジャン・クリストフ」は、市民の偽善に反抗し、河を渡ってパリへ逃げて来る。
「1914年に私が果たした役割」とロランは書き、括弧して「戦乱を超えて」の翻訳がドイツでは禁止されたままと注をつけています。第一次大戦のことです。ドイツがベルギーへ侵攻したことに抗議し、ロマン・ロランはハウプトマン宛の書簡を公開しました。
「あなた方はゲーテの孫ですか? それともアッチラの孫でしょうか?……あなたがたドイツのエリート知識人が、あなた方自身に跳ね返って来るこの犯罪に対し、最後のエネルギーを振り絞って抗議するよう督促します。」
ハウプトマンの返事は否定的でした。「戦争は戦争だ!」
ロマン・ロランは再びハウプトマンに今度は個人的に呼びかけます。「集団的狂気から思考を守るよう努めましょう。自由で純粋な思考を保ちましょう」
さらにマルヌ会戦の最中、ロマン・ロランは「戦乱を超えて Au dessus de la mélée」 を発表し、ドイツ、フランス双方に戦闘を即時停止するよう呼びかけました。ちなみに、ラグビーのスクラムのことをフランス語では mélée メレといいますね。
ロランは、たまたまスイスに滞在していましたが、この書がフランスに反抗するものと見做され、フランスへ帰国できなくなってしまいました。
1930年代に入り、ロマン・ロランやフランスの知識人の呼びかけがきっかけとなり、人民戦線が広範な支持を集めて結成されたことは「1940年前後のフランス史」で書きました。しかし、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連が不可侵条約を結び、人民戦線は崩壊します。知識人と労働者が平和への願いによって団結できたかに見えた連帯は、強大な軍事力の前に、虚しく潰え去ったのでした。
晩年になって生まれ故郷に戻ったロマン・ロランは、そこにも侵攻してきたドイツ兵を見て「精神が現実を受け入れるのを拒む」、「夢か映画を観ているようだ」と書きました。凶暴な軍事力の前には、知識人の精神、民衆の平和への願いがいかに無力かを、まざまざと見せつけられる思いがしたに違いありません。ロランの愛読者にとってせめてもの慰めは、占領下の混乱の中にあっても、ロランが人間的な視線を失わずにドイツ兵を見、時に信仰に思いを馳せながら、ついに信じることは出来ないまま、仕事に喜びを感じ、ベートーヴェンの評伝の最後の章、「第九交響曲」を書き上げたことです。
(良いクリスマスと大晦日をお迎えください)
