まず、この歌から。
Do not forsake me, Oh my darling ……
「わたしを見捨てないでおくれ、愛しいひとよ……」
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forsake という単語を習ったのは、めのおが中学3年生の時でした。同じ中学のM君とO君の三人で、週2回、家庭教師のお宅へ通っていました。先生は一ツ橋大学に通う学生でした。先生のお宅は明治通り沿いの大きなお屋敷の敷地内にありました。その先生の姓が「阿片」と書いて「あがた」と読む珍しいものだったのです。めのおのHNとペンネームを「あがた」としたのは、この先生にあやかってのことなのです。
ロビンフッドだったかな? 中学生向けに易しく書かれた英文のテキストを使っていました。その中に forsake が出てきました。先生は、「こういう歌があるだろ」とハイヌーンの歌を歌ってくれたのでした。
「見捨てないでくれ」と、結婚したばかりで、去ろうとしている花嫁への訴えが切々と聞こえるではありませんか。スタンレイ・クレイマー製作の「ハイヌーン(真昼の決闘)」。繰り返し見るごとにいよいよ意味深い映画に思えてきます。
なんど観ても思うのは、保安官はなぜ、たった一人になっても悪者と対決するのか? という点です。いちどは花嫁を連れて街を去りかける元シェリフは、馬車をU ターンさせ、かつての町の顔役が三人の手下と復讐にやって来る町に戻るんです。
たった一人でも何故? 悪党に背を見せて逃げた「卑怯者」の汚名を着せられたくない、元保安官のプライドからか? 逃げても、どこまでも追いかけてくるだろう、という恐怖からか? 新婚の美しい妻と田舎で雑貨屋などやって平和に幸福に暮らそうと夢見ていたが、どんな田舎へ逃げたところで、復讐を誓った顔役は、執念深く追いかけてくるだろう。平穏に暮らすことなどできないのだ。ならば、いっそのこと、ここでケリを着けた方がいい。私はどこまでも正義を信条に生きてきた保安官だ。プライドがある。それと、後任のシェリフがいないいま、町は元の顔役の思うまま、金と暴力が支配する町に戻ってしまうだろう。退官したとはいえ、それを放ってはおけない。保安官は、やはり、日本のサムライに似た「義」の実践者なのですね。
戦後長く、「世界の保安官」を自任してきた大国アメリカを、すでに予見するような一人の男の姿が、ここにくっきりと描かれてるではありませんか。
中年の保安官が町長と判事の立会いのもとで結婚式をあげるところから映画は始まります。保安官・ケーンを演じるのがゲーリー・クーパー。美貌の若い花嫁・エイミーを演じたのがモナコ王妃となったグレース・ケーリー。エイミーは父を殺され兄も銃で撃たれたときクエーカー教徒になった。彼女の宗派が町の教会とちがうため、結婚式を町の教会であげない。日曜でひとびとはこぞって教会へゆく。
その教会の前を人相の悪い男が三人馬で通る。この町は、むかしは暴力と金が支配していて女子供が安心して歩くことも出来なかった。五年前、正義派の保安官ケーンがきて、無法者のミラーを殺人罪で逮捕し、監獄へぶちこんだ。それいらい、町は平和で秩序が保たれるようになった。ケーンはそろそろ歳だし若くて美しい花嫁も見つかったので、引退して夫婦で雑貨屋でもやろうと考えてるが、保安官の後任がいないのが気がかりだ。
人相の悪い三人の男はミラーの弟とふたりの子分。絞首刑の判決を受けたミラーは北部で恩赦を受け減刑された。十日前に釈放されて、正午の汽車で町に到着すると電報が駅に届く。三人は駅に着くミラーを迎えにゆくところだ。駅員は、一大事と結婚式の会場に電報を届ける。ケーンは、町長や町の人からいますぐ発ったほうがいいと送り出されて、一旦は馬車で町を出る。が、敵に後ろは見せたくない、怖くて逃げるのは嫌だ。それにこの男に特有の正義感から馬車をUターンさせ町へ戻る。ここで悪党を倒さねば一生つけねらわれるって怖れもある。
ケーンは町に戻って助太刀をつのるが、あてにした男はそれぞれ利己的な理由でみんな逃げてしまう。教会へ行って自警団を作ろうと呼びかけ、一時的に義憤にかられた若者が四五人立ち上がるが、町長が、撃ち合いなんかしてもらっちゃ困る。噂が伝わって、この町に投資したがってる北部の事業家が計画をひるがえしてしまう。ケーンは町に戻ってくるべきじゃなかった。いますぐ出てゆくべきだと演説し、若いもんを意志阻喪させてしまう。
経済のためには良心とか正義とかには目をつぶるべきだって、どこの社会にもよくあることだね。
死刑を言い渡した判事も荷物をまとめて出て行ってしまう。判事は言う。判決をくだしたあの日、ミラーはあの椅子ではっきり言っただろう。おれは縛り首になんかならない。かならず戻っておまえらを殺してやるって。お前もばかなことをせず逃げたらいいんだ。
たったひとりになったケーンは四人と対決する覚悟を決め、遺書を書く。
悪漢の親分が乗った汽車が到着するのはちょうど正午。壁の時計が大写しになる。2分前だ。汽車の汽笛が聞こえる。劇中時間と実上映時間がシンクロされた実験的な手法をとり、観客の緊張はいやがうえにも高まってゆく。
グレース・ケリーが扮するエイミーは、クエーカー教徒。結婚したばかりの夫でも、わたしの信仰は決闘で殺人をおかすことを許さない、逃げてくれって、懇願するのだが、ケーンは、悪人が戻ってくると知りながら町を去ることは良心というか、気位というか、モラルが許さない。エイミーは、しかたなく、夫を残して汽車で去ろうとする。
原作はジョン・W・カニンガム、スタンレイ・クレイマー製作、フレッド・ジンネマン監督、カール・フォアマン脚本のこの映画は、決闘シーンをクライマックスに持つ西部劇だが、特に女性二人を絡ませた深みのある人間ドラマとなっています。ケテイ・フラド演じるヘレン・ラミレスは、保安官助手志望の若者に慕われているが、かつてはミラーの愛人でもあり、その後はケーンとも関係を持ったラテン系の典型のような妖艶な女性。エイミーが汽車を待つ間、行く場所が無くホテルのロビーに居ると、ヘレンに会いに来た夫のケーンと出くわす。ヘレンも町から出てゆくとケーンに告げる。独りでロビーにいるエイミーを年上女性の思いやりから「私の部屋に来なさい」と招き入れる。それとなく、ヘレンは「あなたは夫が危機に瀕してるのに見捨ててゆくのか」とエイミーの頑なさを非難します。これが後に汽車が発車する直前に飛び下りるエイミーの伏線になってます。ケテイ・フラドはこの役でアカデミー助演女優賞を獲得しています。
ミラーが着いて悪党四人は町へむかう。ケーンはひとっ子ひとりいない真昼の街頭で汗をぬぐう。決闘を控えた孤独な男の緊迫のシーンだ。
最初の銃声を聞いたとたん、エイミーは、いたたまれずに汽車を飛び降りて、夫が撃ち合いをしてる町へ駆けつける。ケーンを「見捨てる」ことができないんですね。ヘレンに諭されたように信仰より妻として夫の危機を救わねばという衝動に動かされたんでしょうね。ケーンが挟みうちにされ絶体絶命と知ると、エイミーは手下のひとりを背後から銃で撃ってしまう。
ここが意味するところは重大ですね。暴力に対抗するに非武装、絶対平和主義の精神で勝てるのか? 暴力には暴力で対するしかないという、絶望的な洞察が込められているようです。殺人を拒否する絶対平和主義の信仰をもってても、いざ近親の命があぶないとなるとやっぱり武力に訴えてしまう……。平和憲法をもってて、世界の保安官を任じるアメリカと同盟関係にある日本も、そうならないともかぎらない。すごくイミシンでしょ、この映画。……憲法第九条の草案を作ったアメリカ人の中に、クエーカー教徒がいたって話を聞いたことがあります。
人々は、汚い金でも、顔役が持って来る金で町が潤い、活気があった頃の方が良かった、と腹の底では思ってる。新任の保安官ケリーが来て、正義を町にもたらしたのはいいけれど、正義や秩序で町が豊かになるわけじゃない。顔役を逮捕して監獄に送ったお蔭で、町で狼藉を働いたり、因縁を付けられ殺されてしまう不運な者はいなくなったけども、町は寂れてしまった。
民衆と民主主義について大事なことが暗示されます。ミラーに死刑を言い渡した判事が町を出て行く時に言う言葉。民衆を信じるな……。紀元前のアテネで、市民が暴君を追放したが、何年かたってその暴君が兵を率いて戻ると迎え入れて政府要人を殺してしまったんだ。民主主義なんて、そんな風に、民衆の気まぐれに左右されるもんなんだ。民衆の上に立つ権力者なんてそんなもんさ。正義とかなんとかなんかと関係ないんだ。
「エデンの東」のジェームス・デイーンもクエーカー教徒でしたね。グレース・ケリー演じる若くて美貌の花嫁は、父も兄も殺され、人殺しは絶対に拒むという絶対平和主義を固い信条としているクエーカー教の敬虔な信者となっています。悪役と銃で対決すると決めた夫に対し、それなら私は発たせてもらいます、と正午に到着する汽車で夫の許を去ろうとします。「私を見捨てないでおくれ、愛しい人よ」の歌は、そのことを謳ってます。
だが、クエーカー教徒の花嫁は、絶体絶命の夫の状況を知り、殺人を禁じている戒律を破り、銃を取り、悪漢を撃ち殺してしまう。
この映画が作られたのは1952年。アメリカで「マッカーシー旋風」、俗にいう「赤狩り」が猛威を振っていた時代です。また、ソ連とアメリカの間で冷戦が避けられなくなった時代でもあります。ゲリー・クーパーはこの役でアカデミー主演男優賞を獲得。デイミトリ・テイオムキンは歌曲賞を獲るのですが、「作品賞」にノミネートされながらも受賞を逃したのは、リベラルとして有名だったカール・フォアマン、フレッド・ジンネマン、スタンレー・クレイマーの作品に「赤狩り」の最中に投票するのをアカデミーのメンバーがためらったためといわれています。
で、最後どうなるのでしょう?
ミラーはエイミーが撃った銃声を聞きつけて、つかまえてしまう。銃口をエイミーにあて、ケーンに銃を捨てろ、と人質を盾に勝つかにみえた。が、エイミーがもがいてミラーの顔をかきむしって身をふりほどき、離れたところをケーンが撃つ。結局ふたりで協力して悪党を全員倒し、めでたしめでたしとなる。
町の人が走り寄ってくる中、ケーンは胸の星形バッジを地面に投げ捨て、町を去ってゆく。こんな薄汚い町になんの未練があるのかって、判事が捨て台詞を吐いて去って行ったと同じように。しかし、ケーンはサムライとして(元保安官として)挑戦に立ち向かい名誉と、それに町を守った。花嫁も夫を見捨てなかった。
決闘は、中世には、正邪を決める手段として、特に騎士の間では、王や王妃、宮廷人と町人が見守る中、公開で行われた。神が正しい方に味方すると信じられたからであり、勝者が正義を体現すると見做されていました。「アーサー王伝説」にはたびたび決闘シーンが出てきますね。
戦争もかつては一騎打ちの集合でした。フランスの騎士道の延長である一騎打ちの戦闘スタイルが終焉を告げたのは、アザンクールの戦いで、ヘンリー5世率いる英国の長弓隊による組織力の優勢とフランス側が地形を考えず狭い地域に大軍がひしめき合い自滅した時でした。
1940年、ナチス・ドイツがマジノ線を破って、フランスへ侵入した時も、機動力に優れたドイツ軍に英仏両軍は敗退しました。第二次世界大戦まで戦争は総力戦であり、個人のモラル、精神力、愛国心より物量作戦が重要となった。戦争は宣戦布告後、敵対する双方が互いに相手を殺傷し会う相互的な暴力の是認の基に行われますが、いま我々が直面している現代の戦争は、宣戦布告もなければ、相手も見えない、戦闘員と市民の区別もつかなければ、無人飛行機(ドローン)からいつ攻撃されるか分からない戦闘へと変化しています。


