養父を巡る3人の男ーーーキーンさんの「日本人の戦争」その③ | 雷神トールのブログ

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山田風太郎(本名:山田誠也せいや)。1922(大正11)年1月兵庫県養父群関宮村(現在の養父市)に生まれた。父母ともに代々医者の家系で、父は同地で「山田医院」を開業していた。妹(昭子)が誕生したものの、5歳の時には父・太郎が脳卒中で急死した。

1942年(昭和17年)8月、半ば家出状態で上京した。20歳となった同年には徴兵検査を受けたが、肋膜炎のために丙種合格とされ、入隊を免れた。

東京では沖電気の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)、22歳の時に東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格して医学生となった。 1945年5月には空襲で焼け出され山形に避難。

山田は避難先の山形で、沖電気時代の恩人、高須氏の夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会っており、後の1953年に結婚し子供を得て、終生を伴にすることになる。

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以上はウイキの山田風太郎に関する記述の抜粋です。
山田はVシネマの「くの一忍法」の原作者。伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人。
昨夜、山田風太郎について調べているうちに「むむ……。これは」とまたもめのおの人生と意外に近い係わりがあることに驚きました。第一の驚きは、山田の出生地。「兵庫県養父(やぶ)群」は、僕の母方の祖父の本籍なのです。母の父は「兵庫県養父郡八鹿(ようか)村」を本籍に持つ。2003年に八鹿、大屋、関宮の3町が合体し「養父市」となっています。めのおは、この養父の地に4歳と5歳の丸2年間を過ごしました。

$フランスの田舎暮らし-ふるさと

              写真は Google からお借りしました。

そして、なにを隠そう、僕の父の旧姓が山田なのです。父が生まれたのは支那鳳城県四台市と戸籍謄本にあります。父の父親は満鉄のどこか(確か朝鮮半島)の駅長をしていて、僕の父がまだ幼い頃、重大な事故が起こり、責任を感じて自殺したとか、いや自殺ではなかったが死んだといいます。そのため父は幼い身で養子となり、現在僕が名乗っている姓へと変わったのでした。

中学の時、山田君と出会い、お互い気が合うと感じたのはこのせいだったか? 元は同じ姓を名乗る間柄だったからか? とは後になって思ったこと。僕が会社へ入ってからも山田という上司ふたりに大変お世話になりました。父親のような親近感を感じた。父の旧姓が山田だったことは、僕が成人してから教えられたので、これは、後になって、理由づけをする、大方の歴史と変わらない見方ですね。

僕は、高校1年で自殺してしまった中学の同級生の山田君を山田風太郎と結び付けよう、その息子だったことを確認しようとしてウイキを見たのですが、年代的に、そう認めるには無理があることを発見しました。

風太郎は1945年山形に疎開、そこで佐藤啓子(当時13歳)と出会い、後1953年に結婚し、子供を得て終生を共にするとあります。啓子は結婚当時21歳です。

仮に僕の同級の山田君が風太郎と啓子の息子だとしたら、僕らが中学2年の時(1957年、13か14歳)、風太郎は35歳、啓子は25歳ですから、僕の山田君は風太郎が21か22歳で可能としても、啓子は11か12歳だから子を産むのは不可能です。僕の山田君は風太郎が別の女性に産ませた落胤でなければなりません。

ウイキの記述を読む限り、そういった気配はまるで感じられない。どころか、風太郎は、啓子との間にできた娘さんの「育児日記」を書き、娘さんの結婚祝いに贈っているほど子煩悩ぶりを見せています。ウイキの記述は、僕が想定していた高校生の山田君を自殺に追いやるほど厳しいだけで執筆に超多忙な父親とはかなり違ったイメージを与えます。(メイさん、なにか御存じでしたら教えてください)

もう一つ注目すべき点は、風太郎が徴兵検査に丙種合格となり出征を免れたことです。風太郎より3歳年下の三島由紀夫(本名:平岡公威=きみたけ)の本籍も、ご存じかも知れませんが、兵庫県養父郡です。三島由紀夫も徴兵検査で丙種合格となりました。三島は東京に住んでいましたが、農家出身の逞しい青年が多い本籍で徴兵検査を受けた方が自分の虚弱さが目立ち「落ちる」確率が高いと判断したそうです。丙種だが合格でした。徴兵検査の後、入隊の時にも健康診断があり、三島は幸か不幸か、その時風をひいていて肺にラッセル音がし、「即日帰宅」を命じられました。要は出征せずに済んだのです。

「足が生の方へ向かって駆け出した」と「仮面の告白」で、出征を免れた喜びをそれとなく漏らしています。父親の平岡梓も検査に同行していて、帰宅の命令が出るや、親子は兵舎から少しでも遠くへと手を取り合って田舎道を転がるように走って逃げたといいます。上官が「即日帰宅」を覆すのが怖かったのです。松本健一も、そして現東京都知事の猪瀬氏も確か「ペルソナ」に書いていますね。

風太郎は、「徴兵検査で体格不適格で丙種合格となり、『列外の者』とされたことは、彼(私)の内面に『社会から疎外された者』としての意識を形成することになった」と自ら語っています。彼の作品に常に状況から一歩引いた視線で見るという姿勢が一貫して見られるのは戦列に加われなかった負い目なのでしょう。一方の三島は、戦地へ行かずに生き延びたことが、戦後ずっとコンプレックスとなって残り、年齢を重ねるごとに重きを増し、死地を求め自らの一生を劇的に飾るために、ついに市ヶ谷の自衛隊本部へ突入し割腹自殺を遂げたのでした。

ニューヨークのキーンさんのお宅にお邪魔した時、キーンさんが語ってくれたのは、三島の割腹自殺をした日のことでした。

兵庫県の養父市は、めのおが4歳と5歳の丸2年間を母方の祖母と二人きりで過ごした土地であり、その記憶があるために現在こうしてフランスの田舎に住んでいます。養父(やぶ)は古くから但馬の養蚕の中心地として発展しました。めのおの記憶に残る八鹿の家の屋根裏にも蚕棚の跡やいろいろな道具がありました。何度か養父へ行ってみたいと思いましたが、JR山陰本線(姫路からは播但線)の八鹿駅は確かにあっても、昔そこから馬車が曳く荷車(馬力と呼んでた)の後部に座り小川に沿って曲がりくねりする道を八鹿まで行った65年も昔の記憶を頼りに、昔住んだ家はもう無いだろうし、何を目印に探せば良いのか? 駅からはかなり距離があるようだし、様変わりした田舎道にポツンと佇むだけで終わりと予想し控えてました。こんど戸籍謄本で昔の住所も確認できたので、つぎに帰郷する機会に是非訪ねてみたいと思ってます。それに養父市には「山田風太郎記念館」が2003年に建ったので、ひとつ目的が出来ました。

最後に、キーンさんが「日本人の戦争」で引用された山田風太郎の敗戦時の日記から孫引きさせていただきます。山田風太郎が合理的な考えを持った医学生だったことを念頭に置いて読んでください。

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 不合理な神がかり的信念に対して、僕などは幾たび懐疑し、周囲の滔々たる狂信者どもを、或は馬鹿馬鹿しく思い、或は不思議に思ったか知れない。そして結局みなより比較的狂信の度は薄くして今日に至った。
 とはいえ、実はなお僕はみなのこの信念を怖れていた。それは狂信の濁流中にあって微かながら真実を見ている者の心細さ。不安ではない。戦争などいう狂気じみた事態に於いては、「日本は神国なり。かるがゆえに絶対不敗なり」とか「科学を制するは精神力なり」とかいう非論理的な信仰に憑かれている方が、結局勝利の原動力になるのではあるまいか、とも考えていたからである。自分の合理的な考え方が、動物的といっていい今の人間世界では或はまちがっているのではないか、という恐ろしい疑いのためである。
 しかし、非論理はついに非論理であり、不合理は最後まで不合理であった。
 さて、この新聞論調は、やがてみな日本人の戦争観、世界観を一変してしまうであろう。今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるであろう。------敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、一年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう!
               
                              (山田風太郎の日記より)

(キーンさんの「日本人の戦争」ひとまず終わります)



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