この日、労働者50万人、市民団体から50万人、学生だけで5万人が国会を取り巻いてデモを繰り広げた。しかし、その前日、日本のほぼ全新聞が「暴力は止めよ。民主主義を守れ」と一大キャンペーン(七社共同宣言)を張ったため、国会占拠など過激な行動を取る集団はもはやいなかった。
こうして改定安保は自然承認されてしまった。この日以降、国会デモの参加者は急速に減り、改定安保を批准させて目的を達した岸首相が社会的混乱を招いた責任をとりますと辞めてしまったため、闘争は攻撃目標を失い自然消滅してしまった。
こんど1月に帰郷した折に手に入れた孫崎亨氏の「戦後史の正体」によれば、このマスコミの一大キャンペーンも、そして全学連主流派への活動資金提供も、田中清弦を通じて親米路線をとる経済同友会(中山素平は創設当初からの主要メンバー)から「岸おろし」のために行われた。そしてこの日本の財界人の「岸おろし」の背後には岸信介の自主独立路線に危惧を持った米軍およびCIAの意図が働いていた、というのが孫崎氏の推理だ。
岸首相は吉田首相がたったひとりで署名した日米安保条約の不平等性を改定しただけでなく、その先は、アメリカの安保条約よりもこっちの方が本命の「日米行政協定」の改定を目標に、日本から米軍のほぼ全面的撤退を視野に置いていたのだった。
連日のデモにもかかわらず安保の国会通過を阻止できなかった活動家の間には急速に敗北感が広がった。そのころ流行った歌に「ケセラセラ」という歌がある。
渉の周りで熱心に活動していた生徒も「なるようにしか、ならないや」とやけ気味に呟いていた。
「わたしが ほんの小さい時 お母さんが 訊きました。 わたしは綺麗になるでしょうか? わたしはお金持ちになるでしょうか?」
「Que sera sera ケ・セラ・セラ」 はこんな歌詞で始まり、こんなふうに終わる。
「ケ・セラ・セラ~。なるように、なるわ~。 先のこと~など~。 わから~ない~」
渉が中学を終えるころ、母親は、息子が大学受験に苦労しないよう、大学付属の高校を受験するよう勧めた。ある日、母親は誰かの伝手を頼り、銀座の「風月堂」の奥様に、渉を連れて挨拶に行った。ここの息子さんがある大学付属の高校に入学したと聞いたからである。
この奥様は日本で初めての女性パイロットで女だてらに飛行機の操縦ができることで有名な女性だった。
ここでちょいと脱線。パリのシャンゼリゼに「フーケツ」(Fouquet's)というカフェ・レストランがある。17世紀に豪奢を尽くした城(ヴォ・ル・ヴィコント)を作り若い国王ルイ14世の嫉妬を買い三銃士に逮捕されて一生を監獄で送った財務長官フーケの名をとったもので、日本の「風月堂」は「フーケツ」をもじって付けたものだと聞いたことがある。
母親に連れられて「風月堂」御主人の家の玄関に立った時、「ケ~セラ~セラ~」と鼻唄を歌いながら階段を降りてくる年の頃17・8の娘さんを渉は見た。「ずいぶんブルジョワだな」と渉は思ったものだ。ブルジョワという言葉は担任の英語の先生がフランス語が専門だったので渉も知っていたのだ。この歌は、60年安保の数年前にすでに流行っていた。母親は彼女に頭を下げ取り次ぎを頼んだ。
普段交際もない母子連れが突然訪ねてきて高校進学について、アドバイスを求めても答えようもないと思うのだが、母親は藁をも掴む気持ちで訪ねたのだと思う。肝心の渉本人は大学付属の高校へ行く気など毛頭なかった。親の家から歩いてゆけて、安上がりの都立高校へ行こうと初めから決めていたから。
父親は息子を都立高校へ進学させたことを後悔したようだ。都立高校は日教組の会員教諭が多かったから。「おめえら、有名国立大学に入ることばかり考えて、お袋さんを犠牲にしてやがんだろ……」と共産党員の国語の教諭はやくざまがいの口調で、将来の受験ばかりを考えている学校秀才を罵った。
渉の父親の職業は、産業コンサルタントで、九州や富士山麓の工場へ2・3か月泊りこみ、生産性の向上プロジェクトに取り組んでいたから、滅多に息子と一緒の時間を過ごすことが無かった。たまに家にいることがあると、トランプのブリッジかツーテンジャックを息子に教えて遊ぶくらいで、息子が高校へ進学し、学問の新しい世界の入口で途方に暮れていることなど知る由もなかった。
母親は、父親が相談に乗ってくれないと零していた。渉は母親の知的レベルでは、学問の入口で悩んでいる渉にアドバイスを与える力などなく、せいぜい一流大学・一流企業に入って安定した市民生活を営んでくれればと親心から息子の将来を心配するばかりで、そんな親の心遣いを、鬱陶しいと思い、半ば馬鹿にしながら八つ当たりをするのだった。
(つづく)