男女共学 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

渉が高校に入ってすぐに読んだ小説の中で今でも「青春の書」と思っているものにトーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある。

「金髪のインゲ。インゲ・ボルク・ホルムがトニオの意中の人だった」という記述をなんど甘い感情とともに読み返したことか。

この作品は実は悲しくも厳しい内容を含んでいて、小説家という文字によって作品を書く職業が、芸術家に共鳴する心を持ちながらも、俗世と縁を切れず、半ば俗物的な、半ば芸術家的な生を送らざるを得ないという、トーマス・マンが生涯に渡って抱き続けた問題を青春期の思い出に寄せて書いたものだ。

中年になったトニオは社会的に作家として認められているが、芸術への羨望に導かれ幼馴染だった芸術家、女流画家のアトリエを訪ねる。作家は画家と交わす会話で、小説家が純粋な芸術家とはなれない現実を知って悲哀を味わうのだ。芸術憧憬を抱きながらも汚れた俗界と俗物性を捨て切れずにいるのが小説家なのだという痛切な思いが明かされる。

この場面は小説というものを考える上で、とても示唆に富んでいる。

それはさて置き、渉は高校に入って思春期を迎え、初めて初恋を経験した。ロシアの19世紀の作家、ツルゲーネフの「初恋」、それにゲーテの「若きウエルテルの悩み」を読んだのが「この心の痛み、締め付けられるようないとしさの気持ち」を抱くきっかけとなったのかもしれない。

のちに悪友となったNもKも早熟で、それぞれ恋する相手を追いかけまわしていた。ある日、渉はバスケの部室でボールに保革油を塗りながら、恋しい相手がいることをNに打ち明けた。

「ほなら、おれが代わりにゆってやろか。おれの友達のTが君のこと好きやゆうとるって」

「いや。それだけは、やめてほしい。そんなことしたら彼女が君を好きになってしまうかもしれない。だいいち、僕には、あの子のことを思ってる気持がだいじなんだから」

渉が在学した幼稚園、小学校、中学校、そして高校と大学はすべて男女共学だった。男女が日常的に接することは利点が多いがマイナスになる点もあると渉は思う。それは、あまりにも身近に異性が居て、憧れとか「恋心」、特にギリシャ人が「アガペー」と呼んだ「崇高な存在に対する尊崇の念」を異性に対して持ちにくくなってしまうことだと思う。

渉が初恋の感情を抱いた相手は、渉と同じように朝よく遅刻してくる同じ学年の違う組の女生徒だった。色白でふっくらとした頬と丸い形の良い鼻にそばかすを散りばめ、黒目が大きく西洋人形のような
顔をした女の子だった。

彼女への恋心は一年近く続いたが、ある日、体育の授業に別の組の女子生徒が黒いブルマと呼ばれる、乳児がオムツの上から履くだぶだぶの丸いパンツ、その真っ黒なのを履いて校庭に並んでいるのが目に入り、その中に渉の「意中の人」がいるのを発見して衝撃を覚えた。

「なんて残酷なんだ。しい思いをいっぺんに踏みつぶしやがった。だれだ、あんなぶざまなオムツカバーみたいな黒パンを考えたやつは! おれ、どんなに幻滅を感じたか! わかる? おまえ? おれにとって、あの子の愛らしい姿こそ恋に値するものなのに。 おれの
意中の人に黒いだぶだぶのブルマ履かせるなんて。恋に対するこれ以上の冒涜はないぞ! 美しく崇高であるはずのあの子がブルマを揺すりながら校庭を走らねばならないのだ」

「おまえなあ、女の子やゆうても、体操したり、トイレに行ったりせにゃならんのやで。きれいごとばかり夢見てたら、いつまでも女友達でけへんぞ。うじうじ、しとらずに、好きやったら、あたってくだけろや」

実際にNは、肺結核で留年し清瀬のサナトリウムから帰った色白の3つも年上の上級生を放課後追いかけ「ぼくとつきあってください」と求愛したのだったが、「わたしには、もう決まった人がいます」と真実をぶつけられ失恋の悲嘆に暮れねばならなかった。彼の悲嘆がどれほど深かったかを渉はある日、バイト先の工事現場飯場に一緒に泊ったとき目にしている。Nは文字通り身もだえ、七転八倒し、うなされて苦しんでいた。


男女共学の良いところは、幻想に成り立った恋愛感情を超えて、人間的な関係を養うことで、男女間に
純粋な友情が生まれることだ。事実、高校の同級生の男女が何組か後年結婚したという噂を聞き、渉は素直に祝福したい気持ちになった。

  (つづく)

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