中学の同級で後に上智大学へ行ったMは、早くから新聞を読んでいて社会批評にも長けていた。時事問題や社会科教師の言動を批評することができた。渉は高校に入るまで新聞を読んだ記憶がない。
とにかく言葉というものは、現実の事象なり、生きてきた人生の経験と結びついていなければ理解ができない。中学までの渉には人生経験、社会的経験が欠けていたので、言葉を聞いても実感として意味が理解できないのだった。
高校に入ってすぐ、渉は最初の精神上の革命的経験にぶつかった。それが原因で渉は精神的挫折に陥ってゆくのだが、中学までの渉の知的レベルで理解しがたい壁に突き当たったのだった。それは、この言葉と言葉が生じさせる概念の問題だった。
渉はその時になって初めて、学問や思想というものは人間が概念をあやつって構築してゆくものだということに気づいたのだが、概念というものがすぐには理解できなかったのだ。
「概念」には、哲学的なもの、社会学的なものといろいろある。最初にぶちあたったのはもっとも初歩の「抽象的概念」だった。その端的な例が幾何学の「点」と「線」の「公理」だ。これは、ブログにも今まで何度も書いたから繰り返しは避けるが、「点とは位置だけあって大きさがないもの」という公理を、真面目に、突き詰めて、考えれば考えるほど解らなくなってくるのだった。
「大きさ」が無いものが存在し得るだろうか? 存在しないものに位置があるはずがない。いろいろ悩んだあげく、こういうのを「抽象的思考」といい、「大きさが無くても人間の頭の中では存在し、位置がある、とする」のだということだけが分かった。
言葉を介さずとも物や自然と直接対話することはできる。自然界の観察は特に言葉を要しない。理論物理学者は言語ではなく数式を使って自然現象を説明し理解する。
言葉の使用に関して成長が遅れていた渉には、「絵」が言葉の代わりをするところがあった。中学の絵の教科書に出ていた、クールベの「波」に始まって、マネの「笛を吹く少年」、ピサロの都会と農村の狭間にあるような「人の暮らしと共存している畑などの自然風景」に親しみを感じた。
抽象画はどうかと言えば、モンドリアンのタイルを並べたような冷たい絵には何の感興も湧かないが、カンデインスキーの形象と色には音楽を感じたし、クレーの絵には共感を覚え、こんな絵を描いてみたいと思った。
彫刻も好きになった。数学の時間に高村光太郎訳の「ロダン」を読んでいて教師に鞭で叩かれたことがある。具象を少し抽象化したジャコモ・マンズーとかグレコとかマリノ・マリーニ、ルチオ・フォンタナなどに現代的なセンスを感じた。
当時、ソ連の党第一書記長となったフルシチョフが抽象絵画を「ブタのしっぽ」と揶揄したと「芸術新潮」の記事に載り、政治的には前衛を掲げても芸術の分野じゃ遅れてるんだなとデザイナーを志望していた兄と笑ったりした。
「絵画」を通じて感じていたものは「美」であって、渉の美の理想はギリシャ彫刻を代表とする西洋的なものに限られていた。「形」の美の典型は西洋の絵画と彫刻にあった。
だから2年生になって別の女生徒を好きになった時も、彼女の顔の線に西洋的な美の基準に沿うものを見出して、授業中も盗み見てはデッサンをしていた。
「美」によって気持ちが高揚することと「美しい女性」に憧れ恋心を抱くことは同じ心の作用だと渉は思う。東洋の美は奈良の興福寺や薬師寺の仏像、中宮寺の弥勒菩薩像に集約されていた。友人のNは失恋のあと家出をし京都へ行ったが、渉は彼と美の基準を共有していたのだった。
美しい女性に憧れ恋することを奨励し、一体になろうとする衝動を肯定した倉田百三の本を薦めてくれたのもこのNだった。倉田百三は西田哲学から落ちこぼれたような一風変わった思想家で、渉は高校の図書室にあった全集を借り出しては読んでいった。戯曲「出家とその弟子」は親鸞と弟子たちの話で今読んでも古びていないものがある。倉田からニーチェの「ツアラツストラ」の超人思想、日輪崇拝が日蓮に通ずるところがあると示唆を受けた。
「愛」と「美」と「真」と、いずれも魂の高揚を促すものに突き動かされ、駆られるように、学業を放ったらかして映画館や美術館巡りをし、街をほっつき歩いていた。
3ケツの三人は高校生活も終わりに近づき、級友がみな大学受験に青ざめ目の色を変え始めた頃には普通の大学へは行けないと分かり、三人一緒に芸大出身の彫刻家の先生のところへ相談に行った。
「苦しいよう。芸術家は……」
豊かな黒い前髪の間から三人の本意を見定めるように大きな眼で見返しながら先生は言った。
(つづく)