電車の走行につれ、その窪地全体がゆっくりと回転するのだった。古典的な遠近法の譬えで言えば消失点を中心として、その2kmほどの円形ないし扇形が回転するのだった。
電車がそこを通るたびに渉は窓から、その景色全体が回転する情景を楽しんだ。それは見るたびに、なにか天文台から宇宙観測をするときの喜びにも似た感動を与えた。少年の頃、徹夜で天体観測をした夏の夜のことを思い出すのだった。
渉の親が長年住み慣れた新宿西大久保の家を売り、その私鉄沿線に引っ越したのは渉が20歳になった年のことだった。向こう三軒両隣の垣根の隙間から行き来する付き合いをしていた隣近所はみな引っ越してしまい、四方を逆さクラゲに囲まれたためでもあった。
「お休み処」と門の脇に書かれた和風旅館の、玄関までの坪庭には水が打たれ閑静な趣を湛えていた。渉はそうした旅館に囲まれたことが決して厭ではなかったのだが、夏になると冷房用のファンが四方で猛烈な音を立て、これには我慢ができなかった。
荻窪やさらに遠くの物件を見て回ったがどこも気に入らず結局妥協できた家は世田谷の水道道路という特殊な道の脇に建った家だった。道路の下に水道管が走り重量制限用の鉄柱が200mおきぐらいに立っていた。
映画会社のスタジオが近くにあるらしくて、引っ越しの日、荷物と一緒に乗ったトラックが水道道路にさしかかると、キャデラックに乗った植木等が窓から馬面を出して引っ越し一家を冷やかすような仕草をした。
駅前のバス通りには見事な桜の並木があったのだが、引っ越して5年も経たないうちに全部根元から切られてしまった。何のためにあんな馬鹿な事をしたんだろうと今も不思議でならない。バスの発着に邪魔になるからか?
家の20mほど脇には環7が通っていて80年代までは排ガスで遠くが陽炎のように揺らめいて見えるほどの大量の車が地響きを立てて走っていた。親も後で知ったらしいが、家が建っていた水道道路は環状7号線の拡大予定地で鉄筋コンクリート製の家が建てられないと指定されていた。
今から20年ほど前、母親が脳梗塞で左半身が不随になりリハビリを繰り返していた時期、父親は母が車椅子で移動できるよう段差のない床の家に建て替える決心をし、ついでに兄夫婦を2階に、渉のために3階をと、3階建の家を構想したのだったが、この規制があると分かり父親は計画を放棄した。木造の3階建なら可能だったが大変高くつくからだった。
家から駅へ行くには歩道橋で環7を渡り10分ほど歩かねばならなかった。親が年老いてからはこれだけの距離も苦痛となり47年間住んだ家を売り払い、別の私鉄の駅前マンションに引っ越した。
2013年1月15日。雪が残っている歩道橋を渡り、人手に渡った家を見に行った。ほんとの目的は歩道橋の登り口に東京では珍しい梱包材料、ガムテープやナイロンの紐、木綿の使い捨て手袋などを問屋レベルの値段で売ってる店だった。そこへ行ったついでに昔住んだ家を見に行ったのだ。かつての家は全くスタイルの違う四角い箱のような窓の小さなモダンな建築に建て替わっていた。
向かいの将軍さんの家の若奥様らしい女性が道にかがんで雪掻きをしていた。挨拶をして昔ここに住んでいたものですというと、新聞に入っていたチラシを見て知ったと不動産会社が売り出している値段を教えてくれた。値段には興味がなかったが、建て替わった家はまだ売れてなく住人が居ない状態の方に興味があった。
これが唯一の形見ですと若奥様は道路と敷地の境の段差を埋めるのに40個ほど並べられた石を指して言った。家を取り壊した時に、工務店の人がこれはまだ使えるからとガレージに並んでいた石を移してくれたのだそうだ。
(つづく)