自意識について | 雷神トールのブログ

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自意識というものが目覚めるのはいつごろの年齢のことか?

渉は、小学校の3年生の頃、「自我」というのだろうか、周りの子供たちと「自分」とが違う、これが「個」という意識なのかなという感覚を初めてなんとなく自覚したのを覚えている。

それまでは、外界と内面とは渾然として見分けがつかなかったのが、僕と常に接触している同級生の男の子や女の子や先生に取り囲まれている「僕」が居る、と、それまでの自然界の一部だった僕が自然界から独立してあるような、いままで「ボク、ボク」と慣習的に使っていた「僕」という言葉が別の「主観的重み」を持っていると感じ、はじめて内面という世界があるんだなと自覚を持ったのを覚えている。

母親と祖母と、時々帰ってくる父親と兄と妹ふたりと、庭の縁先でだけすり寄ってきて決して家の中に入ろうとしない三毛猫がいる。そうした、環境に取り巻かれて僕が居るという自覚が割と明瞭に感じられた。

幼少期にはこのように明瞭ではないけれど「個」を自覚する時期があるという。いやそれは親への反抗という形で現れ、この時期に親との接触が断たれると子供は自我の面で成長してから問題を起こすという。そんな記事をどこかで読んだ記憶がある。

渉は、幼稚園へ行く前の4歳から5歳にかけての2年間を、兵庫県の養父郡という田舎で祖母と二人きりで暮らした。その時期は両親との接触が断たれていたために普通なら「母恋し」とかの欠如の感覚があるはずなのに、それはなく、むしろ田舎の自然に囲まれた世界で祖母に守られ自足した生活を送っていた記憶だけが残っている。


だから小学3年で感じた「自我」の自覚は、普通なら2回目の自我の成長期と位置付けられるのかもしれない。が、渉は、その時が1回目で、高校に入学したばかりの15歳の思春期に2回目の「自我の目覚め」があったと思っている。

そしてさらに、高校3年には「自我=自意識」を意識し、客観的真理と主観とがどういう関係にあるのか? という、まさに自意識が立てた設問に苦しみ、意識のクライシスを迎えたのだった。

自意識を意識するということが人間には出来る。意識が今自分というものを意識してるなと意識の働きを自覚する。ハイデガーの定義は読んでいないけれど、彼の教え子の一人であるサルトルは、この現象を「対自存在」と人間の本質的作用として捉えた。

自己実現とか物を「所有」したいとかの欲求も実は「対自存在」である人間の意識作用のなすところのものなのだ、と。

自意識を持つことが一般に「自我の目覚め」と言われるが、自我を抱いてるなと自覚する意識を「超越的自我」というのか? まだ不学でわからない。ただ「超自我」というと、フロイドの精神分析の用語で、人間の個我を超えた、集団の、あるいは個が先祖から引き継いだ意識下の世界が個我を左右する働きを持っているということらしい。

このブログの「不覚」さんの記事は、禅の「空」の考えとか西洋合理主義が主張する物質的世界観の中で、意識存在である人間をどうとらえるかを考究されていて大変興味深い。



  (つづく)


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