5月10日、ハルハ河渡河点付近で巡察中の満州国警察隊は、外蒙側から突然の不法射撃を受け、ただちに応戦した。
外蒙古側から見れば、言うまでもなく、ここはもともと外蒙古領であるから、5月4日は不法な攻撃であり、10日は満州国側の不法侵入だった。
小競り合いはさらに11日も続き、12日には外蒙古兵700名が騎馬に乗り攻撃してきた。60名だったという説もあるから、どちらが本当かは分からない。
急報は無線でハイラルの満州国第10管区軍司令部へ、司令官は、その付近の防衛を担当する日本軍の西北防衛司令官(第23師団長)小松原道太郎中将へ伝えた。この時は師団司令部はまだ重大視せず、応対に出た参謀は適当なあしらいをした。報告者が強く談判に出たので日本軍の参謀は
「よし、わかった、出動する」と答えた。
この一言が壮絶な本格戦闘へスタートを切らせることになった。
関東軍作戦課の処理は迅速で積極的だった。ハイラル駐屯の飛行第24戦隊(戦闘機)を小松原の指揮下に置き、チチハル駐屯の飛行第10戦隊(偵察機、爆撃機)と飛行場大隊、そして自動車第1連隊2個中隊を急派し、小松原の麾下(きか)に入れた。
13日夜、東八百蔵中佐を指揮官とする第23捜索隊(軽装甲1中隊と乗馬1中隊)がハイラルより出撃した。ハイラルの満州国軍第8団も合流。ほかに歩兵第64連隊の第1大隊から2個中隊も出動した。
日本軍大隊の出動に外蒙古軍は抵抗せず、翌14日夜にはハルハ河を渡って西岸に退いた。
小松原は満軍第8団をそのままノモンハン付近の国境警備に残し、全部隊はハイラルに帰還した。小松原は日記に「戦果はなし」と書いた。が、この時、飛行第10戦隊第3中隊の97式軽爆撃機5機が、左岸のパオと渡河中の外蒙古兵を爆撃し3・40名を殺傷していたのだった。
この空襲は、ハルハ河の西岸、つまり日本と満州側が主張する国境線を越えて行われた。まだ小競り合いの段階で日本軍は国境侵犯行為を侵してしまった。
この軽爆撃機5機による空爆が、結果的にソ連軍の神経を逆なでし、外蒙古軍に任せておけずソ連軍が矢面に立つ決意を固めさせた。
(つづく)