昭和天皇は、前年の張鼓峰事件のとき、激怒され板垣陸相を叱責された。
「こんごは、わたくしの許しなくして一兵たりとも勝手に動かすことはまかりならん」
昭和7年に陸軍が作った軍機「統帥参考」には
「皇軍の統帥指揮は悉く統帥権の直接または間接の発動に基づき、天皇の親裁もしくは委任により実行される」
これは「統帥大権」といい天皇(大元帥)ひとりが掌握する、兵馬の大権と昔から呼ばれたものである。
戦時・平時にかかわりなく、兵力の出動命令は、大元帥(天皇)の軍令大権によるものと定められていた。
ただし、官憲の請求、および軍司令官の自発による平時の兵力の出動は「已むをえざる緊急の場合」においては例外として認められることがあった。
その「已むをえざる緊急の場合」とは、
イ)国内の反乱に対処する場合
ロ)党を結び武器を用いて国家に反抗するに対処する場合
ハ)国外における国家または国民の利益を防衛するために必要がある場合
ニ)兵力による統治の場合(戒厳令宣言、軍事占領地の統治など)
軍の指揮官が急迫の場合でないのに、故なく外国にたいして戦闘を開始した時は、陸軍刑法第35条「司令官(指揮官)が外国に対し故なく戦闘を開始したるときは死刑に処す」(海軍の場合は海軍刑法第30条)が適用される。
もういちど「満ソ国境紛争処理要綱」を見てみよう。
「国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定してこれを第一線部隊に明示し、無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ。而(しこう)して右地域内に於いては必要以外の行動を為さざると共に苟(いやしく)も行動の要ある場合に於いては、至厳なる警戒と
周到なる部署を以てし、万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」
「従来の指示通牒等は自今一切之を破棄す」
現地関東軍参謀が作った要綱は「自主的に国境線を認定して」、「国境の如何に拘わらず」などと明らかに中央の参謀本部の基本方針を無視し、現地の自分たちだけが状況を分かっているのだから、場合によっては天皇の意向すら無視しても良いとの思いあがり(増上慢)がみてとれる。
小競り合いの後、ソ蒙側の航空機による攻撃が次第に激しくなった。これに対抗する為に関東軍作戦課は、さらに大規模な地上作戦と、ハルハ河西方の外蒙古領内の航空基地(タムスク、マタット、サンベース)を空爆する計画を極秘裏に立てた。東京の参謀本部には隠していた。辻は「関作命甲第1号」という新設番号でカモフラージュし飛行集団に下命した。
しかし計画は漏れてしまい、東京からは「空爆を自粛するように」という自発的中止勧告が送られ、さらに「明25日有末中佐を飛行機により派遣す」と知らせてきた。
「かまわん。有末中佐が来る前にやってしまえ」これが関東軍作戦課の反応だった。そして7月1日~2日と予定されていた爆撃計画を繰り上げることにした。
「明26日可能ならばただちに爆撃を決行せられたし」と打電した。
6月26日、朝、重爆24、軽爆6、戦闘機77の計107機によるタムスク爆撃によって事件は大規模な戦闘になっていった。
後の歴史家の調べによると、東京からの自粛勧告の電報は辻が握りつぶしていたという。さらに電報の決裁書の課長、参謀長、軍司令官の欄に辻は自分の印鑑を押し、代理とサインした。軍司令官、参謀長に代理という規定は無い。これは陸軍刑法に照らして重罪の「擅権(せんけん)の罪」に当たる行為だった。
ここで「防衛」を言うときに陥り易い重大な陥穽があることに我々は気づかねばならない。自国の領内に侵入してくる敵の航空機による攻撃が防ぎきれない。「ならば、その発進地である敵領内にある航空基地を、国境を超え、空爆して、敵の攻撃を事前に押さえるべきである」、という先制攻撃論が必ず出てくる。
日本海軍の「真珠湾攻撃」はその典型的な例である。山本五十六連合艦隊司令長官は、ノモンハン事件当時は、陸軍の日独伊三国同盟締結に強固に反対し続けていたが、ドイツのリッベントロップ外相が日本を訪れ、ノモンハン事件につきソ連との仲介役を申し出たために海軍は三国同盟賛成に方針転換した。
日米開戦には山本司令長官は反対し続けたが、アメリカが「ハル・ノート」を突き付けるに及んで、日米開戦に踏み切らざるを得なくなった。最近、アメリカがルーズベルト大統領時代の民主党政権の中に300人ものコミンテルンのスパイが入り込んでいて、「ハル・ノート」の草案を作ったのは、ソ連のスパイだったと発表した。
ノモンハン事件の最初の小競り合いがソ連による挑発だったと見ると、挑発に軽々しく乗ってしまい、状況の調査分析もせず無謀な戦闘に関東軍を駆り立てた参謀の統帥権干犯は国家への犯罪と言っても過言ではない。
戦争は政治的意思を遂行するための手段であり、軍は政治意思を支える力であり統帥が不可欠。参謀は強い闘志と冷徹な頭脳によって司令官を補佐するのが役割であるからスタンドプレーは許されないのだ。
当時の日本軍部は「満蒙は日本の生命線」を声高に叫んでいた。それゆえ、満蒙の不毛の土地での境界上の線を過剰に考え過ぎた。そして外蒙の後ろ盾のソ連を甘く見過ぎた。世界情勢から見て、さらに中国戦線で泥沼の戦いに苦しんでいた陸軍にとっても、その時点で満蒙の境界線の争いを行うことは避けなければならなかった。中央は、現地関東軍に対して、隠忍自重せよと命令すべきだった。現地参謀が自己を過大評価し、中央の指示(統帥)を無視し出過ぎた戦闘を始めてしまったのがノモンハンの悲劇だった。
「侵略はしないが、侵略されたら断固防衛する」
これは、万国共通の国民意識、民族意識だと思う。侵略と防衛についての徹底した議論をいま日本はすべきであり、「侵略と防衛」の実際的、軍事的関係性を突き詰めて予知徹底しておくべきだと思う。
「侵略行為は絶対に侵さない。しかし国民国家を作った以上、領土や国民の生命、権利が侵されたら、必ず守る」という国民国家の存立基盤として当たり前のことを憲法には謳わなければいけない。
さて、満洲に戻ろう。6月30日夕刻、関東軍は小松原師団長以下、第23師団全軍1万5千人が進撃を開始。西側攻撃隊はハルハ河を渡り敵領内に攻め入った。この時の渡河用の仮橋資材はすべて中国戦線へ出払っていたため、折畳式のボートを繋ぎ合わせた略式の橋だった。これでは戦車どころか装甲車も渡れない。ここでも日本陸軍は「両面の敵を作る」という作戦上の初歩的な、かつ決定的なミスを犯した。
「第23師団の歩兵だけで行け」が命令だった。
戦闘の詳細を書くことは、この記事の目的ではないので、最初に挙げた「ノモンハンの夏」(半藤一利著、2008年、文芸春秋社)はじめ、ノモンハン事件に関する著作に譲り、ここではただ次のことを書いて置きたいと思う。
ノモンハン事件の前半は、ソ連の戦車はガソリンで動いたため、日本軍の肉弾戦が功を奏した。日本軍の歩兵は太平洋戦争終結まで、5発込めで一発撃つごとに遊底(ボルト)を槓桿(こうかん)操作で動かし薬莢を弾き出さねばならない三八式銃を持たされた。
機関銃を前に一発ずつしか撃てない三八銃を持たされた日本陸軍の歩兵の後進性に、上層部は「このほうが一発の弾丸に魂がこもっていい」とまたも精神論で真意を隠した。事実は日露戦争の後も、弾丸を腐るほど作り続け、消費させたかったわけで、いかに人命が軽視されていたかが窺える。
戦車に対しては、サイダー瓶にガソリンを詰めた「火炎瓶」で対抗した。これが驚くほど敵の戦車を炎上させた。戦車には死角があるので、そこから近寄り開口部へ火炎瓶を投げ入れるのだった。ノモンハン事件収拾後、ソ連側の総司令官だったジェーコフは、日本兵士の捨身の勇敢さを称えている。
しかし、8月に入り、ソ連軍は戦地に向け大量の戦車、装甲車、軍事物資を運び終え、総攻撃を開始した。こんどは戦車を改良しデイーゼル・エンジンとし装甲も分厚くしたため日本軍は歯が立たなくなった。
ノモンハン事件で関東軍参謀が立てた勇ましい敵せん滅作戦は、ソ連の物量作戦の前にあっけなく破砕された。航空機(515機)による爆撃、適所に配置された砲台(火砲、迫撃砲542門)からの砲撃、機甲3個旅団(装甲車385輌)戦車2個旅団(498輌)機関銃旅団1(機関銃2255挺)、狙撃兵(歩兵)3個師団、それにモンゴル騎兵2個旅団、(総兵力5万7千人)の圧倒的戦力の前に関東軍と増派された第6軍は無残に潰えた。
(つづく)