国境侵犯、不法越境、河川上不法行為、拉致暴行などは日常茶飯事で行われた。関東軍調査による紛争事件の件数は、昭和11年152回、12年113回、13年166回に上った。
日満両国は非は向こうにあると、ソ連に抗議書を提出した。11年123(59)、12年109(52)、13年158(50)。カッコのなかはソ連側がなんらかの回答をよこしたもので半分以下がなしのつぶてだったことが分かる。
関東軍はハルハ河を国境線と認定していたが、外蒙古側はハルハ河は自国領地であるとし、国境は河の東方13キロの、フロン山-970高地-ノモンハン-ハルハ廟の南北に走る線と主張していた。
* 関東軍と参謀本部との意志疎通の齟齬
陸軍中央参謀部の方針は「侵されても、侵さない。紛争には不拡大を堅持せよ」だった。ところが、関東軍の辻参謀が建策・起案し服部主任参謀が承認し、作戦課が一致して強力に推進した方針「満ソ国境紛争処理要綱」は、それと真っ向から対立する強硬策だった。当時の関東軍の日本語表現を見るためにも敢えて引用させて頂く。
「満ソ国境におけるソ軍(外蒙軍を含む)の不法行為にたいしては、周到なる準備のもとに、徹底的にこれを膺懲(ようちょう)し、ソ連を慴伏(しゅうふく)せしめ、その野望の初動において封殺破摧(はさい=くだきやぶる)す」
中央=参謀本部作戦課(東京三宅坂上)の集団主義と違って、作戦参謀辻政信、かれをバックアップする作戦課主任参謀服部卓四郎という、きわだって戦闘的な二人を中心に、独自の道を驀進し始めた。
関東軍は独自に作った好戦的な「紛争処理要綱」を東京の参謀本部に送った。ところがいつまでたってもウンともスンとも言ってこなかった。関東軍側はこれを黙認された、つまりそれまでの慣習どおり「承認」されたものと理解した。参謀本部(東京)は「侵されても侵さず」の基本方針を満州の関東軍も当然了解しているものと見做していたと後で述懐している。
こうして、最初から現地(関東軍)と東京(参謀本部)との間で意志伝達の齟齬があった。明確な解答や指示を出さず、放置したり、自分らに都合の悪いことを隠したり、本部から自重するよう説得に人が派遣されてくると、その前にやってしまえと無断で独善的な作戦を実行した。陸軍士官学校出の秀才たちがこうしたことを平気でやった。日本国と国民の利益よりも自分たちのメンツ、身内を庇い合う習性が出来上がっていた。
国境紛争の怖いところは、ほんの小さな小競り合いが大規模な全面戦争へと発展してゆくことだ。
国境線が明確でなく、双方が「ハルハ河」だ、いやそれより東方13キロだと、ある幅をもつ「境界」として存在する時、そこでの小競り合い、特に空爆は容易に相手に越境だ、自国内への侵略行為だと見做され反撃の理由を与える。
ノモンハン事件は日本では「事件」と呼び、小さな小競り合いで終わったかのように印象づけているが、モンゴルでは「戦争」、中国では戦役」または「戦争」と呼ばれている。
次回から、小さな小競り合いが、どのようにして大規模な戦闘に拡大していったかを、もう少し詳細に調べてみよう。
大袈裟に言うならば、日本で「事件」と呼ばれている日ソの境界での戦争が、当時の国際情勢と相まって、ついには第二次世界大戦を誘発したと言っても過言ではないからである。
まさしく、ノモンハン事件が拡大してゆく1939年、スターリンは、英仏と結ぶか、ヒトラーと結ぶか二つの選択肢の間を迷っていた。東の満蒙国境で闘いをいどんで来ている日本を、この際徹底的に叩き潰し ておこう。この戦争に全力を投入できるよう、ナチス・ドイツの脅威を、一時的に無にしておく必要がある。そのために、宿敵であるはずのヒトラーと「独ソ不可侵条約」を結ぶ決意をした。
ナチス・ドイツも西の英仏と東のソ連の両面の敵を避けたいばかりにスターリンと手を結んだ。東の脅威を当面押さえることができたナチス・ドイツはポーランドに150万の大軍を侵攻させ、ポーランドと同盟関係にあった英仏はドイツに宣戦布告をした。こうして第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
一方極東では、天津事件が起こり、日本は英仏租界を戒厳令下に置き、イギリス人を大衆の面前で裸にして検査するなど侮辱を与え、英国に譲歩を強いた。そのしっぺがえしにアメリカは日米通商航海条約破棄を通告してきた。
日本は北へ上がって熟柿が落ちるのを待つか、南下すべきか議論の末、辻が主張した「北のソ連は手強いぞ。南には石油ほか無尽蔵の資源がある」に従い南へ軍を進めた。
(つづく)