んてできないじゃない。ロロザに返しましょう」
「まってよ。それじゃ、僕の苦労が水の泡になる。監獄に居るのは平気だよ。二年や三年刑
務所で暮らしたってなんてことはない。その間、生活が保障され、ご飯も食べさせてくれる
んだから、感謝したいほどだよ」
「あたしも、ダニエルも、所有なんかより、創ることに喜びを感じるってことは知ってるでしょ
う?」
それからアンナは啓にとても大事なことを告げたのだった。
「そんなに、私に贈物したいんだったら、ひとつお願いがあるわ。前にも話したと思うけど、ラ
ウルがフレスコ画の修復を手伝ってくれる人を探してるの。ここを無罪釈放で出られるよう
願ってるけど、万一前科がついても、ラウルなら大丈夫。フレスコ画の修復は難しいから初
めは助手として専門家の手伝いになるけど、働きながら研修も受けられる。ダニエルも言っ
たでしょ。フランスには修復が必要なフレスコ画がまだ一杯あるって。フレスコ画なら何百年
も残る。私への捧げものにフレスコ画を欲しいの。ダニエルのことならなんとかなりそうだ
わ。いい? やってくれる? ラウルにハジメがやってくれるって話してもいいわね……。
そうだ、ハジメが作った『アポロンの夢』をちょうだいよ。あのエッチングとてもいいわ。あそ
こで泳いでるのがハジメでピアノと羊が浮いてるのがとっても面白い。こんど出来るアトリエ
にだいじに飾っとくわ」
「えっ? こんど、アトリエが出来るって、パリに?」
「ラティイでも話したと思うけど両親がいよいよ引っ越すって決めたの。あたしも一緒に行く
わ、田舎に……それとね。……あたし、こんど結婚するの」
啓を衝撃が襲った。アンナがいよいよ結婚する。恋する女は他の男と一緒になる。動揺を
抑え、啓はかろうじて聞いた。
「どこへ引っ越すの?」
「ずっと遠く、スペインの近くの、ドルドーニュよ」
頭の中が真っ白になった。ドルドーニュは千キロも離れている。アンナとはほとんど会えな
くなる。啓は言葉を失い茫然とした。夢見ていた恋は幻想のまま、ただ一回の接吻で終わ
るのだ。胸を悲哀が貫いた。
「ランスロットは最後までストイックに生きたわよ」
啓の悲しげな表情を見て、アンナが励ましの言葉を掛けた。啓はやっと、モジリアニが恋
人ジャンヌを突き放し、幸福な生活を拒んで美の女神に身を捧げたことを思い出した。アン
ナには騎士として身を捧げると誓ったではないか。モジリアニに倣い、円卓の騎士が歩んだ
長い孤独な道を最後まで雄々しく生きねばならない。
「あした、ロロザの家に行くけど、いいかしら? ダニエルはもう少し楽しみたいらしいけど、
来週になったらって言ってるわ」
「版画より、僕が描いた君の肖像画を貰ってくれないかな。下手かもしれないけど心をこめ
て描いたから」
「あれは、あたしの記念にいつもハジメの傍に置いといて欲しい。あたしはハジメの版画が
面白くて好きよ」
「そう。ならそうするか。引っ越しの前に渡せるといいけど……。もし、だめならプレスの下に
合紙に挟んだのが何枚かあるから、それを持って行って」
(つづく)