べられた。麻薬のトレーダーでもない啓になぜそこまでするのか? 怒りがこみあげそうだっ
たが、単に規則なのだろうと我慢した。係り官はマニュアルどおり、機械的に万人平等に同
じ検査を徹底しているだけなのだ。靴を脱がされ、中や底を調べ、戻ったときは靴紐が抜か
れていた。ズボンのベルトも取り上げられた。紐状のものは留置者が自殺する危険がある
からだ。自殺の危険などまったくない啓に杓子定規に適用するのがおかしかった。上着は、
出所までお預けで取り上げられた。持ち物のすべて、財布も中味もすべてリストに書きお預
けになる。
留置場は地下にあった。軽犯罪が増え、警察監置所はどこも満杯で、ひとつの監房に、少
なくて三人、多ければ四人も五人も詰め込まれると聞いていたが、期待に反して、独房だっ
た。
薄暗く、冷たく、湿気た黴の匂いが充満する地下の独房は、廊下に接した面を除き、五面
がすべてコンクリートの壁だった。窓が無い。幅三メートル弱の細長い部屋で、狭いベッドが
ひとつ、毛布一枚が置いてある物のすべてだった。
隅にトイレがある。低い仕切り壁が屈んでも頭が廊下から見える高さに作ってあった。トル
コ式のトイレは、オペラ通りの屋根裏の物置に寝泊まりした時から世話になった。しゃがみ
こんで用を足すスタイルだが、日本の和風便所と違い金隠しがない。単に水が溜まった径
十五センチ程の穴が開き、跨いだ足を乗せる台がふたつ並んでいるだけの代物だ。 夜に
なると寒気がした。毛布一枚だけでは寒がりの啓は眠れなかった。床に仰向けに寝て腹筋
を数十回、うつ伏せになり腕立て伏せを数十回やり、身体を温めた。
窓も無く全面石の壁の独房は、まるで中世の城の地下牢を思わせた。淡い常夜灯がひと
つ点った薄闇の中で、啓はダニエルとアンナに聞いた話を思い出していた。
突然、狩り出され、引きたてられ、収容所へ入れられた、数百万のユダヤ人。絶望するし
かなく、飢えと死のみが待つ収容所の生活。それと比べれば今の啓の境遇などずっと恵ま
れている。
啓は次に『窃盗』について考えた。直感の命ずるままに、啓はロロザの所有している二枚
の絵を盗んだ。ダニエルとアンナこそ本来の所有者と信じ、彼女らの手に、その絵を渡した
かった。それが、唯一啓が彼女らへ贈ることのできる友情のしるしであり、償いのしるしだっ
た。
しかし、その啓の行為に社会は手厳しい懲罰を加えようとしている。啓は罰を覚悟してい
たが、いざ、検査のために裸にされ、尻の穴まで調べられ、独房にいれられると恐怖を感じ
た。社会から隔絶され、自由を奪われることの怖さが、独房に入ったとたん全身を襲った。
啓は、ベッドに震えながら横になり、オペラ通りで眠られず天窓を虚しく見上げ、まんじりと
もせずに過ごした夜を思い出した。それから思春期の、孤独も思い出した。教師や母親や友
人に、自分の考えを伝えられない絶望感。コミュニケーションの不可能性を知って味わった
孤独も思い出した。
今、啓はコンクリートに遮られ外界と遮断されている。言葉だけでなく、肉体的接触も、見
ることも聞くこともできず、自分ひとりの内面に向き合わせられている。
次にアンナのことを想い少しは安らぎを覚えた。啓が独房に入った動機の深層にはアンナ
を愛する気持ちがあった。不思議とアンナの裸は想像しなかった。彼女で美しいのは、あの
顔、眼の輝きであり、素早く動く口、手の仕草だった。それらの動きのひとつひとつが、美し
く、愛らしく、この上なく尊いものに思えた。
啓は思い通り藤田の絵をルルーの手に委ねることが出来、ロロザに復讐ができたが、弁
護士は、このまま本物の絵の所在を明かさないなら啓は窃盗罪で起訴され、懲役三年、初
犯なので執行猶予もあるが、啓が本物の所在を言わず改悛の情を示さないので実刑に服さ
ねばならないのは確実だと言った。啓は外国に暮らして前科者の汚名が警察の名簿に残る
覚悟を決めた。
(つづく)

