が一本立っていた。稲妻が走るたびに、真っ黒い影だった樫の木は青みがかった色彩を取り戻す
のだった。
「稲光が綺麗だ。電気を消して見ようよ」
啓がそう言うとアンナが壁のスイッチを押して部屋の照明を消した。啓の心の内部も嵐が襲って
いた。アンナへの想いがますます募り、高まって熱い欲望となって啓の身を焼いた。
「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」
いつの間にかアンナが隣に立って窓の外を覗いていた。
「アンナは、これからは色を使って絵を描くのかい?」
「私の感性がまだ若くて活き活きしてるうちに使わなくちゃいけないって感じたの」
「それで、エッチングやめようって、アンナは考えてるの?」
「すぐにじゃないわよ。今年いっぱいは続ける」
「その後、どうするの? 結婚するのかい?」
「まだ、決まったわけじゃないのよ。絵は描き続けたいし……」
「ずっとパリに住むんだろ」
「少し先の話だと思うんだけど、両親が定年後は田舎に住みたいって言ってるの。あたしも田舎住
まい嫌いじゃないわよ」
今夜、アンナの方から部屋に誘ってくれた。ということは、アンナは少しは僕に気があるのかもし
れない。僕が行動に出ることを期待し、待ってるのかもしれない。だとしたら行動に出ることがアン
ナの期待に応え、貴婦人に仕える騎士の務めではないか。いつの間にか嵐は止み、満月が天空
にくっきりと白く浮かび上がった。月光が部屋に射し込み煌煌と照らしている。白いアンナの肌が薄
明りの中に浮かび上がった。
「アンナ……。きみが好きだ」
「わかってるわ。ハジメの情熱は認める。けど、今夜はおとなしくしてね」
「きみのこと思うと眠れないんだ」
「満月の夜はだれでも夢遊病に罹るわ」
「きみを抱きたい」
「金髪に触りたいとか、白い肌に触れたいとかは欲望よ……。愛とは違うもんだわ。私を愛してるん
なら、違うやり方で愛して欲しいの」
「ちがうやり方っていうと……」
「中世の騎士のような愛し方よ」
「僕、騎士に憧れて日本を出たんだ。僕が命を捧げる貴婦人になって。アンナ……」
「貴婦人として、やって欲しいことがあるわ。明日、帰り路でわかるわ」
「僕が思春期に見た、赤い色」
「すごい偶然ね。私がルビーのペンダントを贈られたのと同じ時期。なにか深い意味があるような
気がする」
「学校をさぼって読んだ本は、アーサー王物語だよ。グラールのイメージを見たんだ」
「そう……。ハジメははっきり聖杯の形を見たのね」
アンナは暫く深い物思いに沈んだ。それから頭を上げ啓を正面から見詰めて言った。
「ハジメが魂の深いところで望んでるものがきっと見つかると思うわ」
「聖杯はイスラエルから地中海を渡って南フランスに伝わったっていうよ」
「アーサー王物語は伝説よ。伝説には円卓の騎士が出てくるわね。あたしもランスロットみたいな
強くて美男の騎士に恋されてみたいな」
アンナはつい数秒前に陥った深い物思いを振り切るようなさっぱりした表情で言った。 目の前に
アンナの形の良い、引き締まった顔があった。啓はアンナを抱き寄せ口を求めた。アンナは逃げな
かった。甘い香りがした。唇と唇が触れ、震えるような感覚が啓の身体に走った。啓は唇を合わせ
強く吸った。啓がさらに強く抱き締めようとするのをアンナは巧みにほどいて、手で啓が近寄るのを
防ぎ、姉が弟を諭すような、優しいからかいの混じった口調で言った。
「今夜は、ここまでね。ランスロットさん……。お利口にして」
「わかった。おとなしくする」
「もう遅いから廊下はそっと歩いた方がいいわよ」
「わかった。さっきの、田舎に住むって話だけど……。めったに会えなくなるって思うと……。大掃
除の日のこと、済まないことをした。なにか償いをしなくちゃっていつも思ってる」
アンナはなにか考え、そして顔を挙げると微笑んで言った。
「明日、パリへの帰り道に見せたい物があるの……。オーセールって街に寄りましょ。朝食が済ん
だら早めに出発。今夜中に荷造りしといてちょうだいね」
アンナは手早く啓の水彩の道具を片付け、啓に渡すと、啓に向き合い黙って手を差し出した。啓
はその手の先を軽く握り手の甲に接吻をした。アンナは啓の腕を取り、優しくドアまで誘導した。そ
れ以上つけ入る隙を与えない。男あしらいに慣れた女に巧みに捌かれ、啓は仕方なくドアを開け、
廊下に忍び足で出て、自分の部屋に帰った。
(つづく)