「レンブラントと藤田の絵と一緒に見せたよ。そのデッサンは『立ち姿の女性の裸像』
と同じ頃描かれたとも言った。そのデッサン載ってるかな?」
啓が画集をアンナの手から取ってページを捲ると、終わり近くに『立ち姿』のデッサンはあった。
「ほら、このデッサンの年は一九一八~一九になってる。黒服、黒髪の女性の絵と同じ時期だよ。
僕が見たデッサンもこれと同じ時期なんだ」
「なにかわけがあるのかしら?」
「ひょっとして、このデッサンのモデルも君のお祖母さんじゃないかな」
「やだあ。二十歳の女が、こんな熟れきった果物みたいにお腹が出てたりしないわ。祖母はとても
エレガントでお腹が出ないようにいつも気にしてたって母も父も言ってる。祖母は一九一七年に結
婚して、モジリアニが死んだ二十年に、私の父を産んだの」
「ってことは、この女性の丸いお腹に、君のお父さんが入ってた可能性もある」
「この女性は三十代だと思うわ。黒髪のお河童娘とは違う人よ。ハジメが見たっていう、もう一枚の
デッサンはもっと若い女性なの? 私、見たいな、そのデッサン」
「そうだよ。ずっと若くて身体の線も直線的で黒髪の女性と感じが似てる」
啓はアンナの眼と口と鼻を観察し、想像で描いた絵をどう修正するか検討した。
アンナは画集を閉じて小机に戻し、貴真面目な表情を啓に向けた。啓は、肖像画は眼と口の線
が命だとわかり改めてアンナの顔を凝視した。天井から釣り下がった一個の電球が光源で、上か
らの光に目の窪みの影が濃く、全体にコントラストが強すぎた。線を引き直すのは諦め、新しい水
彩画用紙にデッサンし直すことにした。デッサンを始めるとアンナが聞いた。
「ハジメは絵を描いていて楽しい?」
啓はすぐには答えず、黙って絵を描き続けた。鉛筆デッサンはラフに描き、水を大目に加えた薄
い色で顔と髪を描き始めた。
「絵を描いてて空しいって感じる時もあるよ。絵を描いてる時がいちばん幸福だけど人類が滅びる
かもしれない時に絵を描いてていいのかって」
啓は黙り込んで絵を描き続けた。アンナの金色と褐色の混じった髪は天井からの光を受け輝い
て美しかった。髪を二本の筆を使い分けながら描いて行った。黙っていたアンナがやがて口を開い
た。
「核を持ってしまった人類は不幸ね。安心して絵も描けやしない。あたしも、版画を作ってて空し
いって感じることがあるわよ。前は版画は後に残るって考えた。でも最近は絵なんかより子供を
作ったほうがいいんじゃないかって思うの」
啓にはかなり衝撃的な発言だった。啓は心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「結婚を考えてるのかい? アンナは」
「いますぐってわけじゃないけど、たぶんね」
啓はおそるおそる聞いてみた。
「だれか、もう決まった人がいるの?」
アンナは小さな笑いを浮かべただけで返事をしなかった。代わりに絵を描くことについてのアンナ
の哲学を語るのだった。
「人種や民族が違えば言葉も宗教も違う。世界政府ができないと地球から戦争はなくならないわ
ね。あたしエスペラント語をやったことあるの。ぜんぜん普及しないわ。でも、絵は言葉が違う人に
も直接なにかを伝えることが出来るわ。絵を描くってことそのものが戦争の防止になると思うの。絵
を描くって創作よね。創作だけが生きる意味を与えてくれる。創作しながら、人間は、『本来的自
己』を発見する。『グノーシス』っていうけど、人間が生きる意味は『本来的自己』を見つけることに
あるって思うの。たとえ戦争が起こったとしても核が炸裂する瞬間まで絵を描き続ける。私たちに
必要なのはそういう覚悟よ……」
アンナは啓を笑いながら見詰めて言うと半ば眼を閉じ夢想するような表情になった。
(つづく)