「ピカソは寝る前でも制作したし、ベッドに入っても描き続けた。巨匠たちはみんな大変な働きもの
です。長い時間を制作に割いている。単なる才能だけではないんです。
どんな天才画家も、絵の制作という点では、みな同じ制作過程を踏む。ピカソが一枚のタブロー
を四時間で完成させるに対して、伝統的な絵を描く職人的な絵描きが四年掛かって一枚の絵を
作ったとしましょう。私は、ピカソがいかに天才であっても、たった四時
間で描いた絵が四年掛けて描いた絵より値段が高いなどということに納得しません。
才能とは構想とデザイン。つまりソフトです。このソフトを評価する基準と、それを画布の上に現
実化する制作という労働、つまりハードの作業を評価する基準と、二種類の基準で絵を評価すべ
きと私は考えます」
「それはそうでしょう。ソフト面の評価がいちばん難しいですよね。ハード面での労働は質と量、時
間という尺度で計量化できますからね」
若い総長が眼鏡を光らせロロザを見て言った。
「ソフトのデザイン料は、画家により、ハードの何十倍、何百倍も乗せられますが、特にこの絵が
世に出回ってオークションにかけられると特別な要素が働くのです。
世に出たばかりでソフトの評価が定まっていない画家の絵は、私はハードの製作費だけで買い
取ります。若い画家に対して私が最初にぶつける質問は、この絵を描くのにどれだけ時間が掛
かったか? なんです。それによって値段を決めています」
ロロザの長い話が終わった。この話をしたくてロロザは大阪まで来たようだった。大学総長が口
を開いた。
「お話とても良くわかります。ともすれば、神秘主義に傾きがちな絵、美術品の評価に合理的な
テーラー主義を導入されたことに感服します。第二次世界大戦後は美術の中心がパリからニュー
ヨークに移り、現代絵画はアメリカが中心になってしまった、ということも評価の仕方に影響を及ぼ
しているのでしょうかね」
若い総長はロロザの話を受けて自分の話をした。
「私は今論文を書いています。現代資本主義は、資本と経営の分離という特徴をますます顕著に
しています。今日、オウナー資本家が経営管理を担当する企業の方が少なくなっています。みな
管理職から選ばれた社長が経営を担当しています。資本と経営の分離というテーマで現代資本
主義論を書いているところです」
その時、政治家が口を挟んだ。
「この総長はんの大学の名前は経綸ゆうてな国家を治め整えるゆう意味なんや。大学論語、孟子
の中庸の能く天下の大経を経綸し、天下の大本を建て、天地の化育を知ると為すいう言葉からき
とるんじゃ。ええ名前じゃろ」
仲介者として機に応じ、タイミング良く口を挟んだ注釈だった。
「この総長はんは若いけど、優秀なんや。いっぽうのロロザはんは、ようけお友達を持ったはる。
ソルボンヌの総長はんとも昵懇にされておいでやと……」
ロロザは返事はせず啓の訳をニヤニヤとうすら笑いを浮かべて聴いていた。
「この総長はんは、優秀なんじゃが、なにせ歳が若い。ほかの私大と比べて遜色がないような何
か肩書きを持たせると良いんではないかと、ワシは理事長に相談を持ちかけられたとき勧めたん
じゃがね。何かの資格。そんじょそこらの教授じゃあとても手に入れられんような、世界的な資格
いうことや。
そこでだが……。ロロザさん。パリで大勢の人と昵懇でおられるロロザさんを見込んで折り入っ
てお願いしたいんじゃが、どうでしょう、この若い総長はんに、ソルボンヌの名誉博士号を貰うてあ
げられんじゃろうか? 授与させてくれるよう関係者、特にソルボンヌの総長はんに働きかけてい
ただけんじゃろうか?」
そういうと政治家は緊張をほぐすためか、盃をつまみ、くいと飲み干した。
「ちと僭越じゃったが、この総長と理事長はんには、すでにロロザさんからソルボンヌに手配してあ
ると報告してあったんじゃ。こんど持ってこられた版画は全部買い上げてくれたでひょ。ほんま、き
きめがありましたなあ。あの、ひとことが……。
ですので、ちいっとばかし、さきばしってもたが、ロロザさんならきっと出来ると見込んでの先走
りでっさかいに、平にご容赦を。お力添え頂けますな。首尾よく、名誉博士号獲得の暁にはまた
別途、みんなでお祝いしまひょ。総長からもまた、買い上げがある筈ですよ。新学年が始まる時
期には、大学はようけ現金が入りますでのう」
そうだったのか。名誉博士号か。啓にとってはどちらも神聖な学問と美術が取引に使われる。商
談には裏の裏があった。世の中の複雑な仕組みを啓は覗いた気がした。
翌日、クララのために三人で京都観光をした。嵐山、西芳寺、竜安寺、二条城、御所、大徳寺。
竜安寺では石庭を、大徳寺では枯山水を縁側に並んで眺める二人を啓はカメラに収めた。二条城
の二の丸庭園の池の畔の松と石灯籠を背景にロロザがクララの肩を抱いてこちらを向いた瞬間を
ショットに収めた。
「あっと……。その写真……」
「心配ご無用ですよ。プレミアム頂けるんでしょうから、だいじょうぶ。奥さんに洩らしたりしません
よ」
京都遊覧のあと新大阪駅から東京へ帰った。ロロザは駅のホームに一万円札の束がずっしりと
入った紙袋をわざと放置し、クララと数メートル離れて立ったまま眺めて戯れ、若い女を喜ばせよ
うとした。
(つづく)