短躯のダニエルは動くと人形のような可愛らしい印象を与える。啓がブリューゲルの描いた子供
みたいだと最初見て感じた印象はその後もずっとついて回った。
レオナルド・ダ・ヴィンチが円の中に両腕、両脚を広げた人体を描き、人体の各部位に黄金分割
の法則が貫かれていることを示してから、人体に関する美意識が、社会に伝搬した。ダ・ヴィンチ
の円形の中に描かれた人体のプロポーションに近い男性ほど美しいと見做されるようになった。
一方で、ダヴィンチは奇形の男の顔をデッサンに残してもいる。 アンナはダニエルの助手として
細かな手伝いをしていた。啓は時々、アンナと一緒にアトリエの床を掃除したり、棚や机に乱雑に
散らかった紙やインク壺を片づたりした。
刷りはアルシュ紙を水に漬けて濡らし、間紙と交互に数枚を重ね、木箱に入れるか、ビニールで
包んで湿気が逃げるのを防ぎ寝かせて置く。
ダニエルは、啓にエッチングの基本的知識をひととおり説明し終わり、小さな銅版を使って全工
程の実技を終えた後、啓に好きなように作品を制作していいと言った。
オペラ通りの下宿に閉じこもって描いた幾つかの動物や人物を組み合わせて、啓は一枚の下絵
を描いた。それは啓がいつか夢に観た光景で、一人の若者が波間から半身を出し、沖に漂ってい
る羊の死体や波に浮いているピアノを驚きの表情で見ている絵だった。若者は両手を大きく拡
げ、左手は開かれて五本の指が明瞭に見える。啓はその版画に<アポロンの夢>というタイトルを
付けようと考えていた。
エッチングした銅版をスクレーパーで削ったり、インクがつき過ぎる面を潰したり、再びグランドを
塗りニードルで線を加えたりを繰り返し、やっと版ができあがり、試し刷りをした。若者の左手の指
が潰れて輪郭があいまいになっていた。大きく開かれた手の指の形は、若者の驚きを表す大事
な部分だから、そこがぼやけてしまっては、作品として台無しだと啓は言いつつ、指の形を鮮明に
出すよう修正しようとした。
エッチングの線はどうしてもぎざぎざがでる。線にいまひとつ明瞭さと力強さが無い。どこかもや
もやと黴が生えたような、網を掛けたような印象を与える。美しい線はビュランという彫刻刀を使っ
て彫った線で得られるが技術的に難しい。
「ビュランは熟練を要するから初心者には無理よ。エッチングをやりながら少しずつ訓練して身に
つけることね」
そう言いながらも、ダニエルはビュランについて解説をしてくれた。
「ビュランってのは銅版を彫るのに使う道具で、これよ。見たことあるでしょう。木製の柄から少し
角度がついて焼き入れをした鋼鉄の軸が伸びてる。ビュランの持ち方はこう。……丸い柄を掌の
肉で包むように握るの。親指と人差し指と中指で軸を持ち、薬指と小指は柄の付け根の窪みに当
てておく。肩と腕と全体の力を刃先に伝えて銅版を彫るんだ。そこが難くて訓練を要するとこな
の。決して力を入れ過ぎちゃだめよ。刃先は鋭角でなく四十五度に切ってある。刃の角を銅版に
当て力を入れずに刃が自然にV字の溝を彫ってゆくのを緩く押しながらついてゆくのよ。曲線を彫
るのは熟練しないとできないよ。ビュランは回さず、銅版を回して彫るんだからね」
ダニエルは、ビュランを貸して欲しいという啓に、指の細部にこだわる必要は無い。この絵は、
全体がしっかりしているから作品としていいものになっていると言い、啓がなおも指の部分を修正
したがる意図を解せず、優れた作家は細かなことにはこだわらないものよ、と啓の木を見て森を見
ない精神を揶揄するように言った。
完璧な作品を作って得意になりたかった啓は、指の形がだいじ、と思い込んでいたので、ダニエ
ルが啓の細部へのこだわりを揶揄したのは、多くのフランス人が中国人を本質と些末を見分ける
目がないと皮肉るのと同じ偏見じゃないかと僻みを覚えた。
(つづく)