については無知だった。
「フランスの代表的エッチング作家には、どんなが人がいますか?」
啓の質問に、ダニエルは「メリヨンよ」と即座に答えた。
「ボードレールはメリヨンが好きで<悪の華>の挿絵を頼んだくらいよ。シャルル・メリヨンは版画に
根を詰め過ぎて精神病院に入ってしまったから挿絵は実現しなかったけどね」
ダニエルは学校の先生のように説明をしてくれた。
「ボードレールは、論文でエッチング協会の活動を擁護したのね。それまで大衆的な複製手段に
過ぎなかったエッチングが協会のお陰で地位を向上させ芸術作品として評価されるようになった
のよ」
アンナも大学講師みたいな口調で解説した。
それからも、ふたりは交代でメリヨンとボードレールの関係を説明してくれた。
メリヨンはパリの憂愁を帯びた風景を幾つも版画に残した。
メリヨンの版画集<パリの銅版画>は癇癪を起したメリヨンが原版を破棄したために、作品の価格
が四倍から五倍に跳ね上がった。
ボードレールはメリヨンが『不機嫌の発作』で原版を破棄したと書いたが、原版破棄は十九世紀
の後半には、版画作者が行うごく普通の行為となった。
「原版破棄は作品の芸術性を保証するために必要不可欠な行為になって、現代の版画家は刷り
終わったら普通に原版に傷をつけて壊すわね」
アンナが優しく説明を加えた。
「版画の原版を作者が自ら傷つけて使えなくするって行為は、ロマン派芸術の狂気と死との関係
を象徴してるわ」
アンナが低い声で言った。
「どんな関係があるってのよ?」
ダニエルが質した。
「まだ刷れる原版に傷をつけて、破棄するのは、若い盛りで、創作活動がこれからってときに自殺
して、芸術家としての生涯を全うするロマン派の神話と重なってる。死を劇的に演出する行為って
こと」
アンナの話に啓は三十五歳で死んだモジリアニを思い浮かべていた。アメリカ人の富豪の前か
ら席を立って絵を売るのを拒否した彼の行為は自殺に他ならなかった。
(つづく)