連載小説 「異土に焦がれて」 30 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

「二ードルでグランドを剝し終わったら、次は腐食液に漬けて腐食よ。時計は持ってるわね。時間

を忘れないこと。漬けて置く時間の管理はエッチングで一番大事だからね」

 腐食液は硝酸と塩化第二鉄溶液の二種類ある。硝酸の方が腐食力が強く危険度も高い。アト

リエの奥の暗い小部屋に、硝酸液と塩化第二鉄溶液が入ったバットが並んでいた。硝酸の透明

な液が入ったバットの中に二枚の銅板が漬けてあるのが見える。覗きこむと、銅が露出した線に

沿い微細な泡がぎっしり並び、液が青い幻想的な光を放っていた。塩化第二鉄溶液は褐色に

濁って銅版を漬けると見えなくなる。初心者には安全な塩化第二鉄が使いやすい。最初は塩化

第二鉄溶液を使いなさいとダニエルは言った。

 褐色の液に銅版を漬ける。腐食開始の時間を腕時計で見る。

 練習なんだからとダニエルは腐食時間を3段階に分け、各段階ごとにプレスで刷って線の状態

を確認した。最初の三十分が過ぎ、銅版を液から取り出して水洗いし、グランドを剝してからインク

を詰める。

「アンナ……。アジメにインクの詰め方を教えてあげて」

 ダニエルはアンナに声を掛けた。
インク詰めはアンナが先生だ……。

 アンナは窓際に座って自分の作品を作っていた。窓から午後の日差しが射し込み、アンナの金

色の髪の輪郭を燃え立たせていた。

 アンナは手を休め、立ちあがって、啓のためにインク台の前に戻った。啓は自分のためにアンナ

に制作を中断させ済まない気がした。

「インクは銅版を温めておいて詰めるの。インクは温まると伸びが良くなるから」

 アンナは小首を傾げて啓を見ながら説明した。

「この箱の中に電気コンロが入ってる」

 アンナは箱の下の開口部から電熱器を引き出して見せながら説明を続けた。この目盛の3に

セットするとちょうどいい温度になるわ。箱の上部の鉄板に銅版を乗せ、銅版が温まったら、手で

取って、この盤の上でインクを詰めるの。

 インクを詰めるのは普通ローラーを使うわ。ローラーの端でインクを少し取って石盤の上で満遍

なく引いてローラーにインクを付けてから銅版の腐食した溝に詰めるの。一方向だけじゃなく、い

ろんな角度からローラーを当てるといいわ。インクを溝に刷りこむように詰めてくんです」

 詰め終わったら寒冷紗で余分なインクをすべて拭き取る。寒冷紗を使った後も、さらに銅版の表

面に残った油分を手の平で拭いとる。

 ダニエルは肉がたっぷりついた小さい手で銅版の表面を撫でる。その手つきはいかにも彼女が

器用なことを感じさせる。だがアンナは、もっと繊細で器用さとか手つきとかを感じさせないほど、

あっという間の仕草で、素早くインク拭きの作業をやってしまうのだった。それでいて版画の出来

上がりは完ぺきで清潔で明瞭だった。


   (つづく)


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