を見て、啓はロロザの画廊から借りて読んだ現代美術についての断片を思い出し、ダニエルに仕
返しをしたくなった。生意気にとられても構わないから議論を吹っかけてみたかった。
「現代の美は、均衡とか、調和とか、ギリシャ時代からの古典的な美の規範を打ち壊して、むしろ
ゆがんだ、いびつな、色も形も伝統美を破ったもんじゃないですか」
「美ってのはね。そんなた易く変わるもんじゃないよ。たとえ深層意識に、ゆがんだ形や塊が溶け
出すようないびつな形があったとしても、作品として形と色を定着させるには、理性で統御しな
きゃならないのよ。多くの人に美しいと感じさせるには、長い歴史に選り抜かれた美の規範に従
わねばならないわね」
「それは、つまり保守的ってことですね」
「保守的もなにも、いびつだったり、ゆがんだりしてる形は醜いんだから、美になりえないよ」
「でも、人の意識が変われば、美醜についての基準も変わるんじゃないですか」
「それは、アジメの頭ん中だけの理屈で、現実はそんなもんじゃないさ。アジメは、あたしのこの
身体を美しいと思うかい? ……正直に言ってごらんよ。最初に会った時、あんたはビックリした
ろ。普段、人眼につかない隠れたモノを見せられた気がして……。人間には、人間の体つきにつ
いての美意識ってもんがあんだよ。ファッション・モデル見ればわかるだろ。スラリと瘠せて背が高
い。手脚が長い、あたしと正反対だね。あたしは、自分が醜いってことを良く知ってるよ。現実の
自分の姿が醜いからせめて自分が作る作品くらい美しいモノを作りたいと思ってんのさ。醜い女
が、醜悪なモノを作ったって褒められやしないよ」
「がりんぼしのファッション・モデル。最近は特に、餓死寸前の、骨と皮ばかり、まるでアウシュ
ヴィッツの囚人見たいなモデルばっかだね」
「あんたはアウシュヴィッツの写真、見たことがあんのかね?……」
ダニエルは意地悪そうな声音になって質した。啓はつい口を滑らせたことを後悔した。
「写真ならあります。あんな恐ろしい事、人間がやったなんて信じらんない」
「人間は核兵器を作ったし、電気も原発で作ってる。原爆を作ったオッペンハイマーも、アインシュ
タインもユダヤ人だわよ。あたしはユダヤの血を引く者の一人として責任を感じるね」
「ナチスがあんな風に野蛮な猛威を振るわなかったら原爆を作る必要はなかった。僕はユダヤ人
を責める気にはならないですよ」
そのとき黙ってふたりの会話を聴いていたアンナが口を挟んだ。
「ナチス・ドイツは原爆を作ってなかったし、広島の前に無条件降伏してヨーロッパの戦争は終
わってた。日本に原爆を落としたのは別の理由からよ」
「別の理由っていうと?」
啓は問い訊してみたくなった。
「日本人が黄色人種だからだわ」
ダニエルが横から無遠慮に口を挟んだ。
「アメリカ軍が日本の本土に上陸したら最後のひとりまで徹底抗戦するって日本人に怖れをなし
たんだわ。一発の原爆で何十万人が殺せるんだから、日本を降伏させるにはもってこいだったの
さ」
啓は日本人としてもっとも屈辱的で悲劇的な事件なので言い返さずにおれなかった。
「なんの罪もない市民に原爆を落としたんだから非難されるべきじゃないですか。日本が降伏する
まで全滅させても原爆を落し続けるって脅したんでしょう。」
するとダニエルは飛躍して言った。
「ヨーロッパからユダヤ人を一掃するってナチの最終的解決とどっか似てるね」
啓はダニエルが人種問題を取り上げたので機会を捉えて言った。
「満州にユダヤ人を招こうって計画もあったんだよ」
黙って聴いていたアンナは、啓の言葉は信じられないという表情を顕わにした。
「それは、ヨーロッパで迫害されてたユダヤ人を救おうって人道的見地からではないでしょう。ユダ
ヤ人のお金が欲しかっただけじゃないかしら。そのうちナチスドイツと同盟を結んだから、そんな計
画はあったにしてもすぐに取り消されたでしょうね」
アンナは澄んだ緑色の眼で啓の視線を捉えて言った。
(つづく)