言い方をした。
「人の作ったものを右から左に流して金を儲ける画商なんて尊敬に値しません。自分で作ってこそ
絵の価値が解るんです。あなたも版画の制作をしなさい」
それが、ダニエルと啓の出会いだった。彼女の作品と、なによりもアンナの美しい容姿と明るい
性格に魅せられ、啓は、そのアトリエに通いたいと思うようになった。
ロロザのもとで版画を売り、リース契約のコミッションで啓はダニエルのアトリエに通うことが出
来る。詩集の挿絵などで銅版画の魅力をある程度知っていた啓は、エッチングに興味を持ち、作
り方を学ぼうと思った。
版画は、原画を左右反転して描くので刷ってみなければ作品の出来栄えがわからない。左右反
転した絵をいきなり版に描けたレンブラントはやはり天才なのだ。啓のような凡人はトレーシング
ペーパーを使って下絵を版に転写する。
エッチングには銅のプレートにグランドを塗る。グランドはアスファルトと松脂と蝋を溶かして固め
た褐色の石鹸のようなもので、使うときは小刀で削ってリグロインという液で溶かす。
「版画はまず、インクの練り方。次に、グランドの塗り方を覚えることから始まるのよ。アンナがお
手本を見せてくれるから、横について、しっかり教えてもらいなさい」
ダニエルはアトリエの主らしい言い方で、指示を与えた。初心者への基礎的な教育はアンナに
任せているらしい。
半袖のTシャツにエプロンを首から掛けたアンナが、インクの缶と油差しとヘラを準備した。アン
ナの露出した二の腕の肌の白さが眩しく啓の眼を射た。アンナが窓際のインクで真っ黒になった
石盤の前に立つ。啓は彼女の横に並んで立った。アンナの顔が啓のちょうど肩の高さにある。ア
ンナの褐色を交えた金髪が豪奢に輝き、啓は手で触れたい欲望を覚えた。
インクの缶から、アンナは金属のへらでインクをひと掬い取って石盤の上に乗せ、油差しから少
量のオイルをインクに垂らした。その手つきは啓に見せるためか、いつものきびきびしたアンナの
仕草と違い、ゆるいテンポの優雅な動きだった。
「オイルがインク全体と均一に混ざるように、根気よく捏ねるのよ」
アンナはへらに乗せたインクを石盤に返すと金属のへらの弾性を利用してインクを石盤に押しつ
けて延ばし、脇のインクを掬い取って混ぜた。盤の上のインクをくまなく掬い取っては捏ね混ぜる
動作を繰り返した。
「やってみる?」
アンナはへらを持った右手を挙げ、二本の指でへらを掴むと残った三本の指を開いて啓の眼の
前に型を作って差し出し、身体全体を品を作る様に捻ったまま啓を見た。その姿を啓は一瞬時間
が停まったような印象とともに見た。アンナの緑色の眼は水晶のように澄んでいた。上瞼の線が
すっと一直線に伸び、切れ長になった眼が啓を見ていた。その眼差しはラテン系の女性の愛嬌と
媚を含んだ眼と違い、鋭く知的で、微細な線や点をも見分ける厳格さを備えていた。アンナが指で
作った形と、鋭い光を放つ眼は啓がはっと息を吞むほど魅惑を湛えていた。へらを取りに行った啓
の手がアンナの指に触れそうになった時、啓は心臓の鼓動が一瞬昂まるのを覚えた。
(つづく)