リアニが一番好きなの?」
「ユトリロの風景画が好きだけど、モジリアニの人物画から滲み出てる哀感が好きだ」
「若くて死んだ。ゴッホもだけど美に命を捧げた芸術家のロマンチックな伝説が人気を呼ぶんじゃ
ないかしら」
「あの映画で、モジリアニがポケットに残ったお金をセーヌに投げ込むシーンがあるだろ。取り縋る
恋人のジャンヌに、オレについてくるなって追い払おうとする。自分が呪われた画家ってことを知っ
てるんだ。通俗な家庭生活を軽蔑する一方で人間に限りなく惹かれる。美の女神へ身を捧げる信
仰のような感情を持ってたんだね。モジリアニって……」
「予感通り不幸な死に方をする。あんな芸術家を愛してしまうジャンヌも可哀そうね」
アンナは眼を曇らせて言った。
「それと、モレルって画商がモジリアニが行き倒れるのを見届けてから、アトリエに行き、素知らぬ
顔で、ジャンヌから絵を買い取ってしまうだろ。画商って、あんなふうに冷酷じゃないとやっていけ
ないのかな? 版画のセールスしながら、そんなこと考える」
啓は画商について常々考えてる事を言った。
「絵を売るだけが画商じゃないわよ。画商の本来の仕事は、画家を育てることよ。若い画家に絵を
描かせあちこち宣伝して歩き、絵が売れるようになったら、オレのおかげって恩を着せ、画家の才
能のおかげで高くなった絵を売って、ボロ儲けすることよ」
運ばれてきたコーヒーが香ばしい匂いを漂わせた。アンナはカップをスプーンで掻き回しなが
ら、啓に言った。
「私の祖母はモジリアニを識ってたわ」
「ええっ! 友達だったってこと?」
啓は驚きの表情を顔に表しながら、内心、ひょっとしてアンナは僕をからかおうとしてるのかもし
れないと思った。
「モジリアニと交流があったってことが祖母の日記に残ってるの。……モジリアニの<前髪を切り
揃えた若い女>って絵をご存じかしら? 黒く真っ直ぐな前髪を額の上で一直線に切り揃えた若い
女性の絵」
ほう。まんざら冗談や口から出まかせではないらしい。
「う~ん。見たことがある気がする。服も黒いのを着てる?」
「服も黒く、椅子も黒いの。黒いドレスは、あの時代、エレガンスの象徴だったの。祖母はパリに
住んでて、頽廃と狂乱の時代に、なかなかのモガだったから、流行りの黒いドレスを着てモデル
になったらしい。あの絵のモデルが私の祖母だって確証はないんだけど、祖母にそっくりだって母
も言うわ。髪のカットの仕方もね。モジリアニと知り合った頃の祖母の年齢が二十歳で、ちょうど
絵のモデルと同じ年頃なの」
「モジリアニと結婚して子供を作ったジャンヌ・エビュテルヌと同じ歳だね。……これはいい人と知
り合いになった。幸運を感じます」
啓はアンナと出会った幸運を心から喜んでいた。映画で啓の印象に残る場面があった。「<モン
パルナスの灯>にはスーチンの絵をモジリアニが手にとって、いいよ、いいじゃないかって褒める
場面があるね」
「ふたりともユダヤ人だから気が合うのよ」
「えっ? モジリアニもユダヤ人なの?」
ヨーロッパに昔から根強く潜む人種問題の中心に居るユダヤ人。啓はアンナの口からイタリア人
とばかり思っていたモジリアニがユダヤ人と聞いてショックを覚えた。
「母がフランス人で父がイタリア人だけど、ユダヤの家系よ。モジリアニはユダヤの伝統的な知性
と感性を受け継いでるわ。モジリアニの家系は遠く哲学者のスピノザに遡れるっていわれてるの
よ」
アンナの眉は茶色で、まっすぐに引かれている。その下の緑色の眼は明るく切れ長で鋭い。こ
の鋭さは、どんな細部にも自分の感性をゆきわたらせようとするアンナの繊細な精神の働きと呼
応している。
「ユダヤ人は感情が深く激しいし、それを美的に表現する方法を昔から求めてきたのね」
「ひょっとしてアンナもユダヤ人?」
啓は恐る恐る訊いてみた。アンナは少し潤んだ両眼で啓を見ながら頷いた。
アンナが通っているアトリエに行ってみたいと啓が言うと、一瞬アンナは戸惑ったような表情を
見せた。だが、すぐに気を取り直し、紙切れに住所を書いて差しだした。
(つづく)